鎌倉文学館「漱石からの手紙 漱石への手紙」

鎌倉文学館「漱石からの手紙 漱石への手紙」


5月18日(木)に行きました。

今年も薔薇を見に行かなくちゃ、と、思い立って朝から出かけた。
バラまつりの間は休館日なしなのがとてもありがたい。ふらっと行ける。
開館は9時から。あまり人がいないうちに薔薇園をゆっくり眺めたいと思って
行ったけれども、到着したのが9時20分すぎくらいだったかな、もうそこそこ
人はいましたね。なるほど。とはいえ、混み合うってほどではなくて、ちゃんと
じっくり眺めてきました。
まだ満開までもう少し、といったところかなあ。蕾も沢山、でももちろん
綺麗に咲いているのもたくさん。
快晴というわけではなく曇りがちだったけれども時折は陽もさして、くっきり
鮮やかな写真も撮れました。
写真とるっていっても私はiPhoneでささっとパシャッと。それでも薔薇が綺麗で
文学館もステキで、絵になる~。うっとり。全然素敵な構図とかわかんないけど
一人満足しました。

ひとしきり薔薇を堪能してから文学館へ。

今の企画展は「漱石からの手紙 漱石への手紙」ということで、18歳の頃、
友人へあてた手紙、って、英文なんですけど。予備門の頃かな。帝大生め。。。
こう、普通に英作文するよ、ってのと、漢文で子規の同人誌への感想書くよ、
ってのと、もちろん家族への普通のお手紙とか、まーあらゆる文章表現が凄い。
まあそれはやっぱり漱石先生だからだしスーパーエリートなわけで、ほんと凄い。

それでも、俳句を始めたとか小説書いてみただとかを、どうかな、ちょっとは
褒めたまへ、みたいにお手紙書いててとっても可愛い。
物書きの心情なんて普遍的に同じなのかねえ。わかる。わかるよ、と、勝手に
共感しまくって楽しかったです。

妻への手紙は可愛いし初々しい感じあるし、いいよねえ。子どもへの手紙も
丁寧な言葉で書いていてとってもいいよねえ。好き。海水浴いいねとか。
若い頃の手紙は率直というか、友人や家族あてなので生身っぽさがあるなあと
思う。だんだん小説家として売れて、弟子なんかへの手紙だと、やっぱり
友人への気安さみたいなのは減って、小説よかったよとかがんばりなさいとか
立場みたいなことがあるんだよねえ。当然なんだけど。

あまり大きな企画ではないけれども、手紙に焦点しぼって漱石の変遷を見る
ことができてとてもよかった。じっくり堪能しました。やっぱ好きだなあ。

で、それから神奈川近代文学館にも言った。「正岡子規展」二回目。
漱石、子規とハシゴしちゃお~っと移動。

元町へついて、港の見える丘公園でも沢山の薔薇が、素晴らしく綺麗に咲き匂い、
いくつもの薔薇のアーチでほんっと夢の世界だった。
4月に行った時には桜散りつつある頃で、その時にもいろいろお花も綺麗だった
けれども、今の薔薇も素晴らしい。ちょっとにわか雨にあってしまったけれど、
こちらでも薔薇たっぷりでしあわせだった。

二回目なので何があるか大体わかってたし前回ほど展示の前で立ち止まっては
泣きそう、ってほどにはならなかったけれども、やっぱり読みふけってしまう。
ここでも、漱石子規のやりとりは最高にステキで可愛くて。何度見ても
どう考えても、友達っていいよね、ってうるっとしてしまう。子規の奔放さと
漱石が真面目に心配してる感じ、とてもいい。もー。お互いいい友達だなあ。
大好きだ。

そんなこんなで薔薇と文学をめぐる一日、しあわせでした。

|

「特別展 生誕150年 正岡子規展―病床六尺の宇宙」

13日の木曜日に、神奈川近代文学館へ行きました。
桜は散り始めていて、その降る桜がまたとてもうつくしかった。
港のみえる丘公園にも花の庭きれいに作られていて、たくさんの花花とても
綺麗だった。春だねえ。


「特別展 生誕150年 正岡子規展―病床六尺の宇宙」

病床のショウは今私出せない字だけど。

正岡子規の生涯をじっくり展示で見せてくれていて、手紙や原稿等々たっぷり
あって、ざっくり見るつもりがじっくりたっぷり見てしまうことになって、
二時間半あまり見入ってしまいました。

私は松山出身なこともあって、子規さんには親しみがあり、子規記念博物館や
子規庵にも何度か行ったことはあり、まあその生涯については大体知っているの
だけれども、それでも、何度見ても何度読んでも、子規さんの手紙魅力的。
手紙よりは原稿なんかはわりと読めるので、開いてあるページを見てしまう。
可愛い。
これも何度も言ってるけど、ほんと子規さんのリアルな言葉は、今であれば
ブログ、毎日更新って感じだし、実際新聞へ毎日連載掲載ってことはそういう
もので、今回展示の始めとかに長谷川櫂さんがちょっとした解説みたいなのを
よせているのが、子規さんの病状が日々実況されているようなものだ、みたいに
書いてあったのがとても納得いく。
ほんとそーなんだよ。

漱石先生との交流も丁寧に取り上げられていてもえる。
漱石が子規へ自分の写真送ってるの~。裏書があって、思わず手帳にメモる。
 「御粗末ながら呈上/正岡常規様/夏目金之助/明治廿五年六月十四日」
ですってよー。
写真をさあ、わざわざ贈って。持っててねってことでしょう? 仲良し。。。
ほんともえる。たまんね~。

あづま菊の、手紙とか絵とかの軸ね、あれもねえ。何度見てもあの前では
マジ泣きしそうになって困る。今回も涙が出そうになるのを必死に我慢。
「僕ハモーダメニナッテシマッタ」の手紙たまらん。泣く。

そんなこんなのメモをとりつつ堪能しました。
やっぱ子規さんは愛されキャラだし、その命が短かったこと、その病が苦し
かったこと、それをあんなにも率直に言葉に書き記し、残していったこと、
全てが物凄くて、わかっていてもいつもびっくりするし感動する。大好き。
その命の中で出来る限りの仕事をして成果を残していったこと。
面白かったです。

講演会にもできれば行きたいけどどーかな。都合つけば行かねば。

|

洞田明子歌集『洞田』批評会

洞田明子歌集『洞田』批評会

   2月25日(土)@中野サンプラザ研修室13:30~

先日土曜日行ってきました。
単なる私個人の主観よる覚書メモ。発言や内容に勘違いがあるかもしれません。

司会:斉藤斎藤 パネリスト 大辻隆弘、花山周子、阿波野巧也

最初に阿波野さん。
章立てそれぞれについて読み解き。「駅」という題選びのよかったこと。
発言のわりと最初から、この「歌集」をどう読むのか迷う、悩むということが
あった。批評のレベル。太朗というユニットが「洞田明子」をつくり、洞田明子が
歌集「洞田」を作りその中に「戸綿」の歌があり、戸綿を作ったのは洞田明子
なのか太朗なのか、どのレベルへ話をするのかわからない。
ストーリーよりはプロットが大事で、一首一首についてやっても意味がない。
「洞田明子」という人物像は見えるけれどもはりぼて的である。

次に大辻さん。
全体的な印象としては近代短歌の「私」への検証、挑戦か。生々しい「洞田明子」
のイメージは感じとれない。読みやすく、生々しさを感じたのはⅢ章。
一人の人物というよりは、トポス、場所が重要な感じ。「ドキュメント72時間」
みたいなとおっしゃってましたが、なるほど。
「私性」を編集で作り上げようとすればするほどはりぼてめいている。
個人データの集積が「私」ではなく、修辞や文体から「私性」を感じるのでは
ないか。

手紙魔まみみたいなコンセプトかなとおっしゃっていて、まみを私も連想してた
ので、うむ、そーだなーと思ったり。

三番目に花山さん。
洞田明子はいないと思った。どこに向かって批評するのかわからない気持ち悪さ。
いい歌がない。洞田明子、この歌集といえばこの歌、というのが挙げられない。
Ⅲ章「富士」になると読みやすくなった。短歌らしい短歌の章。
「私性」は個性ではなく、「短歌的私」という共有されているものなのではないか。
それは共犯的なのではないか。

司会の斎藤さんから。一人の人間ぽくない。歌のうまさがバラバラで、一人の人
としてのバラつきの滑らかさを超えてるほどのバラバラさ。Ⅲ章が読みやすいのは
バラつきが比較的なだらか、おおむね揃ってみえるので一人の人間ぽい。

とかなんとか、その後もいろいろ話は出つつ、やっぱり架空の一人の人物として
洞田明子があり「洞田」というこの歌集があり、というのを批評するって
どうすればいいのか、という迷い、気持ち悪さみたいな所がありました。
「駅」というアンソロジーであるなら、一首一首のいい歌とか見つけたりして
いくけど、この場合は洞田明子の歌集、ということで見る、と、すると、歌が
まとまりなさすぎて一首のよさを殺すようになっていて、いい歌が見つけ出せ
ない。
この実験、「私性」への挑戦なのか実験なのか、この歌集が何なのか見えて
こない。沢山の作者の沢山の歌を集めてるのに多様性がない。ステレオタイプに
落としこんでいるのが残念。
等々。

私はこの歌集の名前程度は聞いたことあるものの、この歌集が何なのかはよく
知らず、批評会の参加も直前に申し込んで歌集読んだのもその場でだったりで、
ほんとに何にも知らずよくわからずで参加しちゃったので、ほんとなんだか
よくわからないなあ、と思いました。そんななのに参加してごめんなさい。
わからないのは自分が悪いんですが。
なんだか豪華なパネリストだし、「私性」の話とかいろいろされるだろうなと
いうのに期待して参加しました。

この歌集はTwitterで募集した短歌を太朗というユニットが一冊にまとめたと
いうもの、らしい。集まった短歌全てを収録、短歌そのものには手を加えて
ません、というものらしい。
詞書は編集がつけたのかな?
奥付の編集には「土岐友浩」の名前もあるけどどういう関わりなのか。
なんかこう、全体がもやっとしてわからず、説明もなく。
歌集は歌集の体裁をとってるけども、成り立ちはこういうものですとか
はっきりしたことがわからないままで、わかんなかったなあ。

これは、Twitterで短歌な仲間たちが参加してつくったお祭り文集ですよー、
みたいな、強烈な内輪ノリなものっていう感じがして、参加してない私には
いやあ、なんか、わからないのに批評会きちゃってごめんなさいという気がして
しょうがなかった。
Twitterでちらほら見かけた「私も洞田明子なのです」みたいなツイートも
なんかわからないので気持ち悪く思ってたりして。内輪の中に入れないからさー。

「私性」をつくってみる実験作品なのかなあ。批評会するとしたら、編集に
対してのレベルしかないだろうなと思ってたけど、編集も太朗というユニット
ですとかだし、ほんと、批評したとして誰に向かって語るのかわからないぐにゃ
ぐにゃ感が。
「私性」についてのことも、まあ、なんか、さほど斬新で印象に残るような話に
なるでもなくてわりとこう、まあそうですねみたいな感じだったような。
前で話すみなさんが、誰を殴っていいのかわからないとか、貴族の遊びか?
みたいなこと言ったりだったのがなかなか、ああ、大変だなあと思いました。
このパネリストや司会引き受けて凄いなあと思いました。

いい歌がない、というのも、多分、たぶんですが、やっぱり参加者の人が、
へー、そういう企画があるのかあ、一首出してみるか、くらいなノリで出した
歌が多かったのでは、という気がする。まあそれは私の勝手な想像なので違う
かもしれないけど、でも、すごく考えて頑張ってすっごくいい歌が出来たら、
こういう企画に出すんじゃなくて自分の名前つけて自分の作品として出すんじゃ
ないのかなあ。
そういうそれぞれのほどほどないい感じの歌が集まって、編集は歌に手を加える
ことなく、ほどほどいい感じになんとかまとめて、となると。たぶん、いい歌集
になるのは厳しいんじゃないかなあ。
そこそこ理解しやすいように男女の物語にしたり。
参加者に女性が多かったんだろうけれども、まあ、それでかどうかわざわざ
「明子」という概ね「女性」と認識されそうな名前つけて。その中でまた別に
「男性」作って。
性別曖昧にさせるような名前つけるんじゃ駄目だったんだろうか。

まあ、Twitterで歌募って、予想以上にいっぱい集まってしまって、でもその歌
には手を加えずに全部使って一冊、一個人風にまとめるって、そりゃあもう
すっごく大変だったろうと思うし、まとめ上げただけでも凄いなあと思うけど。

なんでこんなガチめなパネリストメンツ揃えて批評会やったんだろう?
私みたいに「洞田」をよく知らないわかってない人でも参加オッケーな批評会
やったんだろう?
この企画に参加したみんなで打ち上げ~ってやったり、内輪で読書会やったり
するんじゃなくて、歌集批評会、というのをやったのはなんでだろう。
この「歌集」というのについて真面目に考えようとすればするほどはぐらか
されてこっちがバカをみるような気になるばかり。
参加して実験してみた人達にとっては面白い企画だったのかなあと思う。
でも開いた批評会やるんだったら、この歌集の成り立ちとか編集の経緯とかを
丁寧に説明するペーパーでも配って欲しかったなあ。
まあ、この歌集やTwitterの短歌界隈のことをなにも知らないのに行ってしまった
私がダメなんだよな。

パネリストの困惑とか、会場発言のいろいろとか、沢山話を聞けたのはよかったし
面白かったです。
最後の挨拶のところで、太朗のユニットのお二人が、言い訳になるので何も
言えませんみたいな感じだったんだけど、いやそこはたっぷり言い訳して
なんもわかんないこっちに説明してくれ、と思ったけど。
もっと、怒られるかと。叱って下さい、みたいなこと言ったのもね。なんだか。
かまってちゃんの甘えんぼ中学生かよ。
その後の懇親会でもっと、いやあぶっちゃけ、みたいな話したりしてたのかなあ。
まあでも懇親会に参加しないのでやっぱり全くわからないのでした。
こういうのやってるのかあ、というのは面白かった。

|

NODA・MAP「足跡姫」

*ネタバレ、結末まで触れています。

NODA・MAP 第21回公演
「足跡姫」~時代錯誤冬幽霊(ときあやまってふゆのゆうれい)~

東京芸術劇場。15日(水)の昼を見に行きました。

今回の舞台は江戸。中村勘三郎へのオマージュ、とのこと。

キャストは宮沢りえ、妻夫木聡、古田新太、佐藤隆太、鈴木杏、池田のぶえ、
中村扇雀、野田秀樹。

女歌舞伎は取り締まり厳しい中、お役人がやってくると、男ですよ~と誤魔化して
いる旅一座。いずこのお国、三、四代目が看板踊り子をつとめている。
穴を掘るのが趣味、というかやめられないお国の弟。その穴から出てくる志士。
こっそり腑分けを試みようとしていた蘭学医の下へ届けられた死体。
彼らがそれぞれに入り乱れていく。
新作歌舞伎、「足跡姫」という筋を弟君と生き返った死体とがかき上げて評判を
呼び、お城の殿さまに呼ばれそこで演じることを夢見る。
さて死体は由比正雪であるらしい。お国にはタタラ場の足跡姫がとりついたらしい。
舞台の中の舞台。
舞台からはみ出すリアル。
死体は生きているのか死んでいるのか。
舞台にあく穴。
舞台から伸びる花道。
はだけて肌を見せるだけでない、舞台を演じたい熱。

これは、歌舞伎のはじまり? 舞台のはじまり。

生の舞台をみるのは前の「逆鱗」以来になる。やっぱりやっぱり生のエネルギー
は物凄くて圧倒される。正直、衝撃とか物語の見えてきた時の打ちのめされっぷり
とかは「逆鱗」が私にはあまりにも凄くて、今回は前よりはまあ比較的冷静に
見た。まあもちろん全然違う舞台なわけですし。
それでもやっぱりカーテンコールの時にはぼろぼろ泣く。
これを書いて演じる野田秀樹を想う。

私は中村勘三郎は、勘九郎の頃に2回くらいは見に行ったかなあ。地方にきて
くれたことあったんだよね。あとはテレビの番組を多少見た程度。ファンで
あるとは言えない。それでも好きはもちろん好きで。早すぎる死に驚いた思いは
はっきりある。
野田秀樹がこうも、オマージュですと言葉にして舞台作ったのか、と思う。
その、盟友の死を見送った思いを思う。

一応自分も中高年となった今、生きるとは、生き残るとは、先に逝く大事な人の
死を見ることだな、と、実感を持ってくる。
表現者は、それを表現するのだな、と思う。

宮沢りえ熱演~。
はだけるセクシー。
そして演じているのを演じる、さらに途中からは足跡姫にもなる、がっつり
ずっと舞台引っ張ってって、凄い。
妻夫木くんは微妙に情けないまさに弟で、でも体しっかりしてて、かっこいい。
見られてしあわせだったなあ
そして古田新太~~~っ。へにゃっとした笑わせはもちろん達者だし。びっと
決める時の姿のかっこよさったらもうううう~~。かっこいい。ほんとに
舞台で決め姿の古田新太は最高かっこいい。堪能しました。
中村扇雀はちょこまかちょこまか出たり入ったり、役もいーーーっぱいやる。
あれはなんだろうなあ。あの個人としての存在感凄いわ。面白かった。
野田秀樹はまあもうもちろん、よく動く。緩急の、ちょっとゆったりめの方が
多かったかなあ。相変わらずすごい。

相変わらずの沢山たっくさんの言葉遊びの連なりから話が入り乱れ繋がってく
アクロバットすごい。
タタラ場の、ってあたりは、もうちょっとなんかあるのかと思ったけど、そこは
わりとあっさりで、勝手におお?と勘繰ろうとした私の勘違いだったか。

舞台って、生身のエネルギーだから。死んじゃうと消えてしまう。
一回一回、終わるたびに消えてしまう。
でも、その儚さもうつくしい。でも、それはどうしようもなく悔しい。哀しい。
見えない姫の足跡だけが、残り、消える。
ラスト、鮮やかな一面の桜。とてつもなく美しかった。

見に行けてよかったです。

|

2016年まとめ

2016年まとめ

ざっくりと去年の日記見直してまとめ。

本は33冊でした。
映画は77本でした。

2016年はほんっとに本を読んでなくて、ああそれでも30冊はいったのか、
と思ったくらい。
『さよなら、シリアルキラー』(バリー・ライガ/創元推理文庫)
のシリーズ3部読んだのがよかったな。短編集も12月に出てるらしいので
それも読んでみようと思う。

『百番目の男』(ジャック・カーリィ/文春文庫)
のシリーズも出てる所までは読めてよかった。
いまいち好きになれない、と思いつつも読んだんだから、やっぱそれなりに
面白かったのだ。ジェレミーお兄ちゃん気になるし。

と、つまりシリアルキラー大好きすぎますね私。
もうすっかりどっぷりハンニバル・レクター博士大好きすぎるあまりですね。
去年も今年も、多分ずっとずっと、レクター博士にハマりまくりです。
マッツ・ミケルセンをあいしてます。

新刊をあまり読めてないけどまあ仕方ないか。
今年はもうちょっと本も読む。積ん読減らす。
そしてちゃんと読書日記メモメモ書く。


映画にはよく行った。多分自分史上最高。こんなに映画館行ったんだなあ。
劇場へ行った分しか書いてないけど、日々午後ローつけてたりBSプレミア
だとかDVDだとかも見てて、そういうのもメモしたほうがいいかなあ。
でも多すぎるかな。
あまりにも自分の記憶力がダメダメすぎるので、何かしら少しでもメモって
おくと、多少は思い出す助けになるはずだから。
去年は複数回見に行ってもえたぎったのもあって、しあわせな映画との出会い
だったと思う。
今年もたくさんいい映画見に行きたいな~。
新年さっそくはまた「ローグ・ワン」を見に行くつもりだ。好き。

|

池田はるみ『正座』を読む会

池田はるみ『正座』を読む会

9月6日(火)にあったやつに行ってきた。
個人的覚書メモ。
(私個人の主観のメモなので正確なものではないです。パネリストの発表等、
私が勝手な思い込みで間違い勘違いで聞いているかもしれません)


パネリスト:大島史洋、花山多佳子、服部真里子

最初は大島さんから。
15首引用。僕がいいと思った歌です、とのこと。
池田さんらしい、ということで自然体の中のユーモアのある歌等。
ただその「らしい」というのは難しいところで、面白がって、面白がらせよう
としてやりすぎになってしまうとつまらない。作りすぎ、と感じてしまう。
大鵬の一連はよかったなあ。
擬態語の面白い使い方のこと。それもやりすぎになってしまうかどうか、微妙で
難しいところ。

ですよね。これはよい、とするか、やりすぎだなあと引くか、その塩梅って
読み手の好みってことに左右されちゃうんじゃないかなあ。難しい。
私は池田さんの歌好きで受け入れる幅が大きいほうかな。

次は花山さん。
池田さんと生年月日、誕生日まで同じという同世代だそうです。
言説的なもの言いの歌への疑問。言葉遣いへの疑問。
同世代、といえばわかりあいやすい、という安直さは全くなくて、ある程度
重なり合ってわかる気がするけれども、でもなおさらすごく違うと感じると。
バックボーンの違い、他者性を感じると。

わからない、というところのお話興味深かった。好きな歌のこと、文体のこと、
この歌集からだけでなくこれまでの歌からの流れも面白かった。

次は服部さん。
沢山の歌をひいて歌そのものに即して読む感じ。言葉選び、字数を使って
ゆったり感のある歌を「空気を入れる、空気を描く」とまとめているのが
なんだか腑に落ちる感じ。池田さんの歌の呼吸というか、池田さんの声が
してくるようなこういう歌私も好きなので。
「生き物として対等」とまとめられていたのもわかる。孫、赤子にも、犬とか
すずめとか小さな生き物にも、対等な視線であるような歌。
幻想的な歌の異様性。日常的な歌が多い中での際立ちなど。

地震や原発の歌をレトリックとして捉えるのは無理があるのでは、という
大島さんの意見などもあり。
歌そのものテキストの背後に何をどこまで読み取るか、って、やはり読み手
それぞれの問題なんだなあと思う。


それから会場から。
40名あまり、みんなそれぞれに読みや感想や意見交換などなど。
亀さんのシリーズが私はかなり好きなんだけど、池田さんのご近所さんからは
近所に亀のいる池があって、みたいなお話があったり。亀の擬人化、と見るか、
どうか。
私はリアル亀だとはまったく思ってなかったのだけども、でも、そういうのも
面白かった。もちろん歌そのものが、おとぎ話めいていて、人間であり亀であり
という膨らみの余地のある世界。
ほんとに会場みんなから意見が出て、いろんな、あらゆる角度から読む感じが
して、参加しててとても面白い会だった。

懇親会までお邪魔させてもらって、美味しく飲んで食べて、楽しかった。
ありがとうございました。

いくつか、私が好きな歌。


  あんたはなあどうも甘いと言はれてる烈夏の下を通つてゐたが

  けふ我はからだに沼をかかへこみうつぶせの背に蛍をとばす

  あかんでの「で」の抑制がうつたうしいあほなことしたらあかんでの「で」

  赤ちやんは福の神なりわれに来てむーんと重いちひさなからだ

  さびしくても大丈夫だよといふやうに亀さんことりと動きはじめぬ

  亀さんとゐればときをり寄せてくるちひさな風に時間がうごく

  カウンターに呑みつつ並びゐし人ら ゆふぐれはみな話があつて


やさしくてほんのりあたたかくてきちんと静かな距離感があって、好きです。
『正座』というタイトルを見た時、あ、なるほど、という納得があった。
池田さんは厳しい正座を強いるのではなくて、なんの無理なく正座できる
人だなあと思う。ゆったりしてるけど強い芯がある。さらりとしている。
面白いなあ。


|

大西久美子歌集『イーハトーブの数式』批評会

*私の個人的主観的覚書メモ。私の思い込みや勘違いで間違いがあるかもしれません。


大西久美子歌集『イーハトーブの数式』批評会

パネリスト:大松達知、鯨井可菜子、服部真里子、藤原龍一郎
司会:加藤治郎

6月11日(土)、中野サンプラザ研修室

行ってきました。
日記書くのが遅くなり過ぎちゃった。一応ざっくりメモだけ。

パネリスト、最初は大松達知さん。前半Ⅰのほうがよい。ふるさとや作者自身に
根差したきちんとした歌。Ⅱは言葉が空回りしているのではないか。

次に鯨井可菜子さん。イーハトーブ「と」数式 という歌集なのではないか。
ふるさとへの愛着のよく見えるⅠ。やや虚構めいて夢的な数理の世界の二つが
ある歌集。

次に服部真里子さん。ⅠもⅡも殊更に分けて時系列にあてはめてわかりやすい物語
に収束させて読むやり方をしなくてもよい。「表面/空洞」「離人感」「台詞」
「恍惚」等の分類で歌そのものを味わう。

次に藤原龍一郎さん。Ⅰでの手堅い短歌らしい短歌に比べるとⅡは迷いがあるの
ではないか。「雨」「動物」「嗅覚」「洗練された修辞」という取り上げ方。
歌に枕詞等の手法を取り入れて新しい世界へ進んでいこうとしているのでは。


それぞれの発言、議論があり、休憩あって会場発言等。
やはりⅠでのうまさ、手堅く完成しているところの評価と、そこから変化して
いくようなⅡはいまいち、という感じ。
個人的に読んでいてうまいなあいい歌だなあと思うのはどっちにもあって、
付箋をつけたのはまあやはり少しⅠのほうが多かったかな。
変化してゆきたいというのは当然で、どう変わるかはもう作者の思うように
いくしかないので、そんなにⅠのがいい、って意見が出てるのが不思議で
面白かった。

読んでいくからにはわかりたい、というのはそうだと思うんだけど、服部さんの
言うようにわかりやすい時系列だと決めて物語の流れをつくらなくてもいい、
わからないならわからないままでも読んでいい、という感じもわかる。
歌集って一冊になってるから、なんとなく順番に読んでいくし、順番に考えるし
そうするとやっぱり順番な物語にしちゃうなあ。でも作った時とか場所とか
バラバラなんだよねえ別に。フラットに読めばいいかなと思う。
でもまあ編集する時に何も考えてないわけはないだろうと思うけど。
そこは読み手の勝手でいいのではないか。うーん。
作者だって勝手につくればいいんだし。
まあ、そんなこんなを自分の中でもあれこれ考えられて面白かった。
タイトルの裏話、最初は別の案だったけれど、治郎さんの一声でやっぱり今の
ものに決めて、とか。タイトルがいい、って話が多かったので、へ~~~、と
知ったのも面白かった。行ってよかったです。


いくつか、私個人が好きな歌。

  病んでゐる人がわたしの手と足を果実のやうにもぎ取つてゆく
  ジャポニカのマス目ノートを埋めつくす「あ」は朝の「あ」だ。「あ」「あ」、花が咲く
  とほい世の落葉松林だつたらうお湯にほどけるチキンラーメン
  
  指先をスマートフォンに滑らせる指紋をもたないアンドロイドが
  とぢてゆくわたしはただの砂粒になりたいだけよ目だけ遺して
  強き雨弱き雨にも気づかない地下鉄の耳となりしか、この日

|

中家菜津子『うずく、まる』批評会


中家菜津子『うずく、まる』批評会(2016/4/17@中野サンプラザ)


行きました。さっさと日記書かなかったから曖昧になっちゃった。

*私個人の主観による個人的覚書メモです。私の勝手な思い込みや勘違いが
あるかと思います。

批評会の第一部 野村喜和夫さんに聞く「詩型は越えられるか」
                  (聞き手)加藤治郎

まずは野村さんの紹介等。野村さんから見た短歌の印象など。参加申し込み受付
で、質問も受け付けていたそうで、その質問いくつか。
詩型を超える、融合とかについて、詩や短歌に限らず、他者に開かれていない
ジャンルは弱くなってしまう。でも一つのジャンルの絶対化も必要。詩なり短歌
なりを信頼、極めようという感じ。でも外に開くことも必要。

「詩型融合のクロニクル」という資料。近代の詩歌作品集をずらっと一覧に
したもの。自由詩や短歌、旋頭歌、俳句、散文、など複数の詩型を一冊に入れて
いるもの。まあそれは、沢山あるねというか、ん~、うん、と、思う。
近代、複数の詩型を作るのがスタンダードだったのでは、ということですが、
そうだと思う。まー当然詩人であろうが歌人俳人であろうが散文は普通に書くし
両方やってみている人も別に珍しい感じはしない。
ただ両方やっていて両方がよい、というのはちょっと難しくなるのかなあ。

縁語、言葉の自走性が面白い、という感じ。
中家さんの「うずく、まる」はまさにそう、「うずくまる」の一つの言葉から
連なり広がる言葉の作品。
散緒の一連。「ば」と「ら」の音韻から連なる広がる言葉の作品。
これがとても勢いも完成度も高い、というのはわかる。
「せんせい」(p111)の一連、自由詩と短歌。傑作。密度の高い優れたレベル
の高い詩です、とのこと。「折る」「祈る」という字面、視覚からの連想も。
言葉の自走は音韻のみならず広がりのあるもの。
というような評価。

お二人の話を聞いていて、なんかこう、うーんと、わかる、し、言ってることは
わかるけれど、なんの評価なのか基準がわからないと私は思った。
何を言ってるんだろう。やっぱり私は詩歌のことが全然わかんなくて向いてない
無理なんだ、と、けっこうポカンとしてしまった。それはまそうで、私は詩歌が
わからない人間で難しいんだろうなーと自分のことを思う。
けど、会が進んで、他のパネリストの話を聞いたりもして、なんとなく、こう、
この、詩型を超えて融合して、というものの評価そのものが、かなり、恣意的な
もののように思った。
多分一般化はされてない。途中なのかなと個人的には思う。

珈琲にこだわる人、ミルクにこだわる人それぞれが集まって、究極のカフェオレ
を求めて、みたいなことを言ってもなかなか難しいんだろうなというような。
カフェオレをきわめている人が足りてないとゆーか。

「うずく、まる」のような試みを、新しい素晴らしい、と積極的に評価している
んだなあということはわかって、なるほど、と思いました


第二部 パネルディスカッション『うずく、まる』をめぐって
    石川美南、遠藤由季、染野太朗、藪内亮輔 (司会)中島裕介

遠藤由季さんから。
中家作品との出会いの一首は「うずく、まる」。最初はツイッターで見たと
おっしゃってたと思う。その後一連見て、詩の分も見て短歌からこぼれおちた
背景が詩になって出てきてよかった、という感じ。
連作、短歌はどちらかというと詩によりかかっていて短歌単体だと弱い。
言葉、名詞で広げていくイメージ。

染野太朗さん
頭韻、脚韻などのこだわり、意味の方が後ろに下がっていく。
「きみ」が私に奉仕している、特に誰、という「きみ」ではなく単なる他者で
ある「きみ」や「あなた」。
ややステレオタイプに偏りすぎのような、ナルシシズムな「女」。

最初の発言の時にはやや厳しめな感じになっちゃったかなと、後からいろいろ
追加でお話されてて、とてもよくわかる感じだった。

石川美南さん
「ひかり」よきもの、詩の本質としてある言葉。冷たさ、温度差は、作者の
バックボーンとして雪国、北海道で過ごした思春期(?)があるもの。
「女性として生きることの自覚、あるいは無自覚」ステレオタイプの女性性、
むしろ一周回ってこの頃珍しいかな、と。
言葉の自走で、作者自身さえ驚いたのではないかという言葉の発展。
「はるじおん はるじおん はるじおんの字は咲き乱れ、銃声がなる」
よくない歌は、短歌ってこういうものだよねというところに落とし込みすぎて
いるのではないか。

藪内亮輔さん
「うずく、まる」重なりと螺旋的文体。縁語的とか自走性というもの。
言葉の重なり、表記での視覚的効果への指摘など。
一冊の本全体をまとまりとして捉えた読み解きで、短歌詩融合である本書を
見るのはこう、こんなにも全体的に見るのかなあ、と不思議で面白かった。

それぞれの発言や司会者ともどもの会話を聞いて、一部でなんだか不思議に
奇妙に、言ってることはわかるけど何が何だかわからないと思っていたのが
なんとなく私の中で解体できたような気がした。
パネリストの方みんな歌人なので、やはり短歌的なことの話のほうが多くて、
私が言ってることがよりわかりやすく感じたのかな。
まー私短歌もわかんないけど。

染野さんや石川さんが指摘された短歌としての弱さのようなところは私も
読んで思ったところ。女性性みたいなところも。

この本を読んで思ったのは「おんなです」というところを強くまっすぐ主張
してくるんだなあということ。
「うずく、まる」の一連がこの本の中心であって、それは自分の、産む性と
しての「女性」を強くテーマに持ち表現してるもの。
性別から自由になりたい、性別を超えたい、という方が今は主流なのでは、
ないか、と、思うんだけど、そうでもないのかな。全体的なことは私は見識が
足りなさすぎるので、あくまで私が知るたぶん狭い範囲内では、だけど。
私自身の好みも、あんまり女性性とか読みたいとは思わないので、好きになる
本ではなかった。
「うずく、まる」は凄くて、作品としてとても力があると思ったけれど、
他のは私にはあんまり読み切れない感じ。
詩型の融合とかにもあんまり個人的に興味は薄いので、そこをうまく読めて
いないと思う。

あと会場発言など。

批評会に行って、沢山の人の話を聞けてよかった。個人の中でもやっと思った
ことが少しは整理できたような気がする。面白かったです。


|

「村上隆のスーパーフラット・コレクション―蕭白、魯山人からキーファーまで―」

19日、横浜美術館に行きました。

「村上隆のスーパーフラット・コレクション―蕭白、魯山人からキーファーまで―」

美術館に入ったところで、どかーんとでっかいオブジェがあります。
映像作品も。
な、何がなんだかわからないけれど迫力はがーんといきなりありまくり。こわい。

入場して、最初のほうは、クラシックなもの。それこそ蕭白だとか魯山人蔵のもの、
書画、壺。器。狛犬。等等。
それから現代アート? インスタレーションだったり。

大きいな~とか、綺麗だな~とか、いやよくわからない、何を見ていいのか
わからない。。。とか不思議な気分になりつつぐるっと。
村上隆の脳内世界というコーナーもあり、そこもぎゅぎゅっと詰まっていて
現代も創作物も茶器みたいなのも何もかも、という感じ。うーん。わからない
けどもこういう感じなのか、と、どういう感じって言えないけど、なんか、そう、
こういう感じなのか、という感じはする。

トークイベントに申込みしていて、村上隆が語る、っていうの、3回目だそう。
でも私は初めて聞きました。村上隆ご本人を見るのも話を聞くのも初めて。
まったくのド素人で何にもわかってない自分ですが、お話は面白かった。

1100点ほどの展示。それでもコレクションの5分の1程度だそう。
どこにそんなにコレクションしてるんだろう??
ともあれ、それだけのものを見られるのはすごい機会だった気がする。

これまでやってきたキュレーターとしての仕事の歴史とかちらっと。
作家活動もだけど、キュレーターとして先駆けていろいろやってるんだなあ。

現代アートを買うのは肝試し、って言ってた。
これを、ここまで、俺つきあっちゃう?? って思いながら買うんだってー。
それもそれなりにそこそこのお値段出して。100万とか200万とか。
あるいはもっと。あとで、俺バカだったなあ、てへ、って思うのが癒される。
のだって。なるほど。
それは、やっぱり、なんていうか、やっぱり、アートって、余裕なんだなあ。。。
とりあえず肝試しに、後々自分の後悔があるとしても、そういう金額動かせる
くらいの余裕は、最低限なくちゃ、ということかと。
そんなこんなで会社は倒産しかけ、小さいんで必死ですよみたいなお話を
していたけれども、やっぱりそこはそういう世界で、そういう金額が動くだけ
の遊び、力、ちょっとクレイジー、な、世界なのかなあ、と、想像する。
私にはとてもとても縁のない世界。
こーして美術館だので見せてくれるのを待つしかできない~。
お金持ちはやっぱりどんどんアートに金を使って欲しい。そういう世界が
あってほしい。

肝試しにしろ何にせよ、現代アートに金を動かす、っていうのは、俺が価値を
つける、っていうことか。
意図とか意味とかあってもなくても自分で決める、かなー。
自分の体験を買う、のか。

美術館で展示やるにも、保険だけでもう巨額の金が使われる、らしい。
なるほど~~。
アラブの金持ちとかの世界か。
村上隆の作品は高くて、それを運ぶ保険だけで、企画の予算潰れるから、もう
日本じゃやりません、みたいなことだった。
キュレーターとしてはやるかも、とかセルフプロデュースではやるかも、とか、
生々しい話も面白かった。

顔と名前だしてこういう商売して、有名になって、ってことだね、儲けている
有名人、とみなされること、だね、そうすると信じられないほどの面倒とか
悪意とか向かってくるらしく、「自我が崩壊しますよ」って当たり前のように
喋ったのが印象的。リアルにそうなんだろうなあ、と思った。

そんなこんなのお話を聞いてからもう一度コレクション展さっくり見直した。
これを買った背景、みたいなのを知るとまたその話込みでの作品になって
面白く感じた。ふーん。

特に私は物語が好きだから、エピソードつきのコンテンツになったほうが
面白く思うなあ。

そして会場では大体は撮影オッケーなのだった。最近てそうなのか。
フラッシュとか単体でアップはちょっとみたいな注意はあったけれども。
かなりみんな携帯スマホでカシャカシャ。
私も、可愛いな~と思ったやつはいくつか撮ってみたりした。
物凄い物量に、それからその作品のあるんだかないんだかわからないパワーに
圧倒されて疲れた一日になった。
その作品に、パワーがあるんだかないんだかわからないけど何かを見ようと
してしまうよねーやっぱりそこに展示されているなって見る以上は。でも、
まあわかんないし、ふーん、とか、まあ好きに見ればいいんだけど、ふーむ、
って感じもして行ったからには一生懸命見ちゃう。でもそういうの貧しい自分
なのかも、とか、うーん、どーなの。
なんだか凄い一日でした。見に行っておいてよかった。面白かった。

|

野田地図 第20回公演「逆鱗」


*ネタバレ、結末まで触れています。


野田地図 第20回公演「逆鱗」
作・演出 野田秀樹

松たか子 瑛太 井上真央 阿部サダヲ 池田成志 満島真之介 銀粉蝶 野田秀樹

10日のマチネを見に行きました。@東京芸術劇場

どういう話なのかまったく知らずに見に行った。

水族館に巨大な水槽が設置されるところから始まる。これから、人魚を捉えて
展示する予定の場所。
届けられる電報。他の人には見えない沖の船が見えるという電報配達の青年。
沖の船を恐れている人たち。
水族館に目玉が欲しい館長と、そこにつけこむ人魚学の博士と助手の娘。
助手のザコは館長の娘でもあった。
そして、海底に棲む人魚。

人魚を巡って捕まえるとかどうとかのドタバタがあり、でもちらほら挟まれる
言葉、シーンで、あー戦争のことが? と思っていたら、終盤わかる。
人魚とは人間魚雷。特攻作戦に散った回天の話だった。

相変わらずの言葉遊び、連想から膨らむめまぐるしい展開。
楽しく盛り上がって、時折挟まれる不穏な闇の気配から、最後まで一気に
たたみかけられる。135分、休憩なし。魅入られた。

舞台を動き泳ぎ回る魚たち。くるくる仕切るボード。衣装も可愛い。
頭のない巨大な魚とかもちろん明らかに作り物なのに不気味ですごい。
あがったり下りたり、ハッチや水槽の縁になる階段の所好きだった。
わざわざ二回まわるのね。その高低の感じ、可愛かった。

澄んだ瞳の青年が満島真之介で、あーもー確かに澄んだ瞳きらきら、その目、
ああ~っと、やられる。
目がいい、電報を持ってきた青年、瑛太。なんだかほわんとした好青年、それが
巻き込まれ戸惑い苦しむ。
青年たちの死を抱えた人魚。松たか子の語りに始まって終わる。回天の回想の
物語だったのね。

こんなにも、こんなにも、言葉の魔術師つーか変幻自在に言葉を使いぶつける
演劇の、ラストには、もうなんの言葉も放つことはできず、ただ、悲鳴があがる。
悲鳴が。

海の死は死んだ者の時間が溶けだして塩になり、しょっぱくなる。
時間の塩、というのは胸に刺さった。

NINGYOの悲鳴、松たか子の最後の叫びで涙腺決壊。びしょびしょに泣いた。
どんな言葉も出ない。

帰りに「新潮」3月号買ってしまう。「逆鱗」の台本載ってたから。
見終わってからまた初めから言葉を追うとよくわかるし刺さる。
こういう舞台をつくったんだなあ。見に行けてよかった。


 「……私の咽頭部から喉頭部へとつづく、少し手前の筋肉から、音のような
 ものが出て……」

 NINGYO            松たか子
 モガリ・サマヨウ       瑛太
 鵜飼ザコ           井上真央
 サキモリ・オモウ       阿部サダヲ
 鵜飼綱元           池田成志
 イルカ・モノノウ(イルカ君) 満島真之介
 鰯ババア(逆八百比丘尼)   銀粉蝶
 柿本魚麻呂          野田秀樹


|

より以前の記事一覧