『ヒットの崩壊』(柴那典/講談社現代新書)


『ヒットの崩壊』(柴那典/講談社現代新書)


2016年11月刊。

「最近のヒット曲って何?」という問いかけから始まる一冊。音楽のヒット
とは何か。かつてのCDミリオンセール連発の時代とは違って今は音楽が
売れなくなっている、といわれているが、本当か。CDの売り上げは下がった
けれどもフェスの動員数は増え続け音楽業界の在り方が変わってきている
ということ、等々がさっくり読めてよかった。

CDの売り上げ不振とはいえ、コンサートとかフェスとか、生の体験って
方向にシフトはしていて、やっぱり音楽好き、音楽にお金払う層っていうのは
がっつりあるよねえという感じがある。

私個人的には、ライブに行ったりはもうほとんどしなくなってるし、フェス
みたいなのにもまったくついていける気がしないので、今後も物凄く時代遅れ
にCD買ってくんだろうなあという所。配信ダウンロードとかストリーミング
だとかを使いこなせる気がしない。。。うーん。
ラジオ聞いて気になった曲ぐぐったりYouTubeで見てみたりしてCD買います。
たぶん、これからも。。。でもそう、CDという物の発売がなくなっていく
ようになるんだろうなあ。うー。頼む。発売してくれ。。。

あ、私が聴く、買う、のはほとんど洋楽。CDもあまぞんでインポート。
でも物が欲しいレトロガラパゴス人間。。。世の中の変化についていく
のは難しい。

みんなが知ってるヒット曲、という役割というのは難しくなってきたとは
いえ、やっぱりこれからも出てくるし、むしろ世界規模での大ヒットと
いうことが今後は増えるんだろう。そこに日本人アーティストが絡むか
どうかはともかく。
日本国内でのヒット、っていうのは、どーなのかねえ。やっぱアイドル?

アニメ映画「君の名は。」からのとかがあったのを思うと、テレビより
むしろ大ヒット映画が生まれればそこからっていうほうが国内全国的
全世代的にはいけるような気がする。テレビCM、テレビドラマからって
いうほうがニッチになりそう。

この本はざっくり一年あまり前の刊行で、小室さんに取材しての話が
あって、ああ~小室さん。。。という気分にもなる。音楽の移り変わり、
人の移り変わりは、やっぱり突然だったりするんだなあ。
この本時点ではSMAP解散が大きな変化だけど、その後はあるし、ヒット
メーカー小室さんが不倫報道なんかと介護問題で疲れ切って引退という
宣言しちゃったりで。

一発屋みたいなのがへって息の長い音楽活動をするアーティストが増えた、
というこの本の論調はその通りだと思うけど、とはいえやはり有名人で
あることが厳しくなってきてる感じは、うーん。どーなんだろ。
大ヒット飛ばして有名人になるより、そこそこで着実なファンがつくほうが
いい社会になってるのかなあ。

音楽、私は映画をよく見に行くので、音楽のかっこよさを思う時に、
予告編を映画前にけっこう沢山見せられるたびに、日本映画がたまに
まざると、致命的に音楽がかっこ悪いだろ、と、すごく思ってしまう。
私のかっこいい基準がどうしようもなく洋楽方面に偏っているのであくまで
個人的に思うことなんだけど。
今だと「空海」なー。せっかく中国との共同?かなんかで壮大にやってる
っぽいのに、あの音楽はねーだろーと思ってしまう。その前にマーベル
や「ブラックパンサー」の予告なんかあったりすると、もう、その、
ほんっと日本の映画の音楽かっこわる。。。とテンションが下がる。
まー個人の好みだけど。
邦画の音楽って、どーなってんだろうね。あのがっくりくる主題歌システム
とかどーにかならないのか。。。まあ、これも個人的好みの問題だけど。
でもな~~~。

と、このごろの音楽シーンについてざっくりとした流れを知る事ができて
面白く読みました。

 
 はじめに
 第一章 ヒットなき時代の音楽の行方
 第二章 ヒットチャートに何が起こったか
 第三章 変わるテレビと音楽の関係
 第四章 ライブ市場は拡大を続ける
 第五章 J-POPの可能性―輸入から輸出へ
 第六章 音楽の未来、ヒットの未来
 おわりに

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『猫は踏まずに』(本多真弓/六花書林)


『猫は踏まずに』(本多真弓/六花書林)


2017年12月刊。第一歌集。

本多さんのことはもうそこそこ長い間知ってる人で、歌集の感想書くのって
そういう人のもののほうが難しいよねー。
基本的に作者名と、実際本人というのは切り離して読むんだけれども
難しくなる。けど、まあ、あったことある人知ってる人っていったって、
その人の全部を知ってるわけないし圧倒的に知らないわけだから、あんまり
気にしないで読むしかない。

ともあれ、本多さんの歌集は待望の、というものであるのは間違いなくて、
ツイッターでもたくさんの引用が流れてきたりする。
まず本の見た目からしてすごく可愛い。ツイッターアイコンの桜餅の
写真がベースなのでしょう、桜餅みたいなピンクの猫が葉っぱにつつまれて
いるはっきりした線の絵。すっごい可愛い~!
表紙のベースは緑色。白抜きで、くにゃっとした字でタイトル。この
タイトル文字もデザイン凝ったんでしょうね。手触りもいいし、ソフトカバー
で、普通の単行本よりちょっとだけ小ぶりでとても手に馴染む感じの本。
中の遊び紙もなんかすごい上等なのでは。中表紙とか表紙の折り返しにも
凝ってるし。猫のシルエットなイラストもいっぱい。これは愛される~。

栞は、花山多佳子、穂村弘、染野太朗。解説は岡井隆。さすがゴージャス。

製作年にはこだわらず編んだ歌集だそうです。
一冊読むと、会社員として働く姿。想像の世界。一人の女として生きている、
生きていくこと、という姿が見えてるくるように思う。
思ってたよりもずっと、ずっと、「女」ということがテーマにあるように
感じた。
たぶん、生きていく上で、「女」という性を意識させられる、せずには
いられない、ということが「男」よりは多い。
仕事が大変とか、生きるの大変とかは、性別関係なく誰にもありうること
なのだけれども、そこにしばしば「女だから」ということを、多分ことさらな
悪意なくても押し付けられたり自分自身が考えてしまわずにいられなくなる。
そしてある程度の年を重ねれば「産む」ということを。
そんなこんなは面倒でうんざりで、自由になりたいし考えたくもない、と
思うんだけど、私は。岡崎さんの歌集読んだ時にも思ったけどこの歌集を
読みながらも考えたりして、読めば読むほどなかなかつらい、と思う。自分
のことのように読んでしまうのだ。そう読めるのは、歌という作品に完成
させてまとめられているからなのだろう。
面白く読ませてもらいました。


これも付箋だらけにしてしまいそうなところ我慢していくつか、好きな歌。


  わたくしはけふも会社へまゐります一匹たりとも猫は踏まずに (p10)

巻頭の一首。タイトルの歌。印象強くてすぐ暗唱してしまえる。みんな引用
してるね。自分は猫を踏まないけど猫に踏まれまくってる日々みたいな気分
になる。丁寧でちょっとおかしみのある風だけど、「まゐります」って
この丁寧さは諦めだと思う。猫がいてもいなくても、踏んでも踏まなくても、
踏まれても踏まれなくても、会社に真面目に行く。信頼できるなあ。


  ですよねと電話相手を肯定しわたしを消してゆく会社員 (p13)

  ミントタブレットどうでもいいことのどうでもよさに嬲られてゐる (p13)

  女子トイレ一番奥のややひろい個室に黒いサンドバッグを (p16)

  ああ今日も雨のにほひがつんとくる背広だらけの大会議室 (p18)

  パトラッシュが百匹ゐたら百匹につかれたよつていひたい気分 (p21)

「猫は踏まずに」の一連は会社員としての日常という感じ。私自身は社会人
してた頃には下っ端だしポンコツな方だったからなあ。とはいえ一応は働い
てた。ある程度真面目に働く誰もが共感してしまう歌たちだと思う。

電話相手はお客様だか上司だか、で、そういう受け答えには無難にならざる
をえなくて。優秀な会社員は「わたし」という個を消すこともできる。
「嬲られる」というこの漢字を選ぶ気持ちがすごい伝わる、どうでもいいこと
のうんざりの連続。
女子トイレにはやや広い個室があるし、サンドバッグが欲しくなるものだ。
背広だらけの大会議室。そういう、社会。会社。
パトラッシュの歌はツイッターで最初流したのだと思う。すごく人気も
あった。「フランダースの犬」のあの場面のことは、ある世代、でも、多分
世代超えて共通して想起できる場面かなあ。ネロは天に召されてしまうけど、
召されないで。。。疲れたよって、もふもふのパトラッシュが、いればいい
のに。百匹でも千匹でもいればいいのに。いない、この、途方もない疲労感。
こんなに軽やかに優しくでも果てしない疲れを言える歌、凄いです。


  いつしらに母を産みしかキッチンでわたしが母をあやしてをりぬ (p39)

自分がすっかり大人になれば親は老いる。老いている。母のほうが子どもの
ようになっている。「母を産みしか」と捉えている感覚が不思議ですごくて、
とても優しいなあ。


  ひらかれるときのわたしのかなしみをきみのからだも知ればいいのに (p53)

  ひらがなのやうにをんなのもつ肉のゆるりゆうるりたれてゆくなり (p79)

おんなのからだ、おんなの肉、を、かなしみ、愛おしみしている感じ。やはり
ひらがなだよなあと納得してしまう感じ。文字を眺めていたい歌です。


  目にふたがあつて耳にはないことをたしかめたがるひとのくちびる (p101)

  きのふけふあしたあさつてしあさつてあたしあなたのこゑをきく耳 (p108)

耳っていいよね。耳ってすごくいいよね! それはともかく、どちらも
セクシーだけどいやらしくはなく、切なく切実で、素敵だ、とうっとりした。


  あたらしいメールがきみに届くたび目のまへにゐるぼくはうすれる (p114)

「ミント×チョコレイト」という、BL短歌っていう一連から。
BLは好きですし、BLというネーミング以前からこじらせてますしという私
としては何か言わなければなるまい。ってことはないけれども。もちろん
BLといったって人ぞれぞれいろいろに思い表現するもので、別に私がそんな
BLに詳しいわけじゃなく。
一連、ふわあっと綺麗だったり、でもそこをちょっと外してきたりという
工夫があって面白かった。そして別に特にBLだからって読まなくてもいいし
読みたければどんな歌でも何でもBLだよねと言えるわけで。
引いた一首はこの目の前のきみとぼくの関係の切実さがいいなあと思った。
なんかこう、メールひとつにこんなに思ってしまう気持ちっていうのは
とてもとてもきゅんと切ない。怒るでもなんでもなく、自分が相手にとって
うすれてしまうんじゃないか、という、怖れ、ね。
次の一連は百合短歌ってことだそうで。それも、きれいな一連でした。女の子
ってやわらかい、と言いたくなるような。
ただ、ほんっとただ個人的好みというか性癖というか、私が思うにはなんか
綺麗ですてきだけどつるっときれいすぎるような気がするなーというか、
うーん。短歌だからなあ。難しいけど。ほんっとただ個人的好みなんだけど
私が求めるBLは、もちろんきれいなのも大好き、いい、けどもっとがっつり
きてくれ、って、特にこの数年は思ってるので、BL短歌だからってもえる
ってわけでもなくん~短歌だと難しいなあと、勝手なことを思ったのでした。


  ひかりごと啜る白粥はふはふといのちを生きていのちは産まず (p130)

白粥を啜ってる、多分あんまり健康ではない、弱っている状態かな。
そんな時、生きてるなあ、と思う。産むか産まないか、どちらかという
ことを女は多かれ少なかれ意識してしまう。せざるをえない。自分の年や
生活の中に、いのちを産むことができるかできないか、を、タイムリミット
つきで考えてしまう。まあ、考えてしまうのは私なのだけれども。そんな、
生きる時間を思うのでした。刺さるー。考えたくないけど、こういう歌が
ほんと刺さるんだ。自分の歌として読んでしまう。
作者と私とは多少の共通点があるとはいえ、全然違うのに、こうして自分の
歌として読んでしまう~という歌が沢山あって、それはやっぱり短歌として
うまく、短歌として昇華されている作品なのだと思う。

歌集出版おめでとうございます。読めてよかった。


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『羅針盤』(本川克幸/砂子屋書房)


『羅針盤』(本川克幸/砂子屋書房)


2017年11月刊。遺歌集。

遺歌集なのだ。
本川さんというほどの接点があったわけではない。同じ結社で、同じ時に
未来年間賞を貰った。それ以前にも未来賞で注目があったので、未来の
誌上で歌を拝見していたばかりである。
訃報を知った時の事を覚えている。嘘でしょ、と、思って、しばらく嘘かと
間違いかと思っていた。享年51歳だそうだ。

歌集として改めて歌を読んで、控え目に秘めた思いの強さのある、歌として
よく言葉を選んで作り上げている作品だと感じた。
佐伯裕子さんの解説や奥様の「あとがきに代えて」で、お仕事は海上保安官
であったと知る。北国の海での厳しい日々があったのだと思う。そういう
背景を知って、雪の実感が増す。今、横浜にいても寒い。先週、今週も
雪のある厳しい冷え込みの冬である。勿論北国と比べるべくもないけれども、
寒さの実感を思って読んだ。

歌、よくってあれもこれもと付箋だらけになりそうな中、いくつか。


  秋の日の言葉を包む封筒に百舌の切手を貼る「飛んでゆけ」 (p16)

これは未来へ詠草を送る時の歌かなと想像。とはいえそうでなくても、秋の
日に大事な言葉を手紙にして送るときめきが伝わってきて素直にいいなあと
思える歌。最初の頃は詠草を送る封筒、切手、ポスト、全部にお願いします、
って感じで祈りをこめて出してました。今は最初ほどじゃない、けど、やっぱ
今でも毎度切手貼って出しに行くのは格別な気持ちがあるなーと自分のこと
を思った。


  一さいは過ぎて行きます一さいは過ぎてゆきます がらんどうなり (p37)

「一さい」という表記が、最初は一歳? んん? という感じがして、でも
何もかも全てが過ぎてゆくどうしようもなさが伝わってきて、その最初の
ゆらぎを呼ぶのも、うまいなと思う。がらんどう なんだな。


  こわれても修理をすればよい船とこわれたままで働く心 (p59)

  君のいる街が遠くに見えている雪のなか君の街がとおくに (p60)

  右腿のケースに銃を差し入れて「彼ら」と呼ばれているそのひとり (p61)

これらは仕事柄、現場、という重みを感じる。船は壊れても修理をすれば
直る。こころは、修理するのは難しいというか出来ないというか。それでも
そのまま働くのはとてつもなく切ない。
君がいる街を、海から眺めているのかなと思う。雪の中、君、とおく という
繰り返しが心からの祈りのようで切なくて寒さと涙に街の明かりが滲んで
いるのではないかと思う。
「銃」があるのは現代の日本では尋常なことではない。でも、作者の世界
には時に現れるものなのかと思う。その厳しさを思う。「彼ら」という
存在を思う。私に明確にわかるものではないけれど、このリアルが歌で
伝わってくるって凄い。


  夕焼けがこわいのですか夕焼けを見ていることがこわいのですか (p70)

これも繰り返し、少しずらした繰り返しが切実さを伝えてくる歌。こわい、
悲しい寂しいを含んで、一日の終りがこわい、のかなあ。問いかけは誰か
に向けたものというより自分自身のものだと思う。私、上手くとりきれ
ないけれども、好きだ。


  体内は古き公園 誰もいないベンチに春の雪積もらせて (p117)

体内が古い公園、という初句のインパクトが凄い。公園だけど誰もいない。
ベンチには雪が積もる。けれどそれは春の雪。かすかな希望がある。
うつくしい一首。


  救えない命を乗せて走る船 分かっているが陸地はとおい (p137)

淡々とした事実の一首なのだろう。「とおい」ということのやりきれなさ、
苦しさをこういう一首にしているのがとても切ない。「海に死ぬ」という
一連。こういう出来事に向き合う仕事だったのか。


  冬の波に吸わるるために降りてくる雪を吸わるるまで見届けぬ (p144)

自分も海上にいて、雪が降ってきて、果てしなくあてどなく雪が空から海へ
消えていくのを見ている、という一首だと思う。この厳しい冷気、無限の
儚さ、うつくしさが描き出されている歌、美しいと思った。

読めてよかったです。

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『いとしい一日』(喜多昭夫/私家版)


『いとしい一日』(喜多昭夫/私家版)


2017年11月刊。

個人的な歌集なのかな。著者のあとがきや略歴の類もついてないので
どういうものなのかはわかりません。
自転車の写真の表紙とか自転車の写真のトレーシングペパー?な遊び紙とか、
章の見出しのデザインに凝ったりしててきれいな本だなあ。

「アキオ 17歳 1980」という所から始まって大学生時代のこと、今、
という流れがあって、この一冊で作者像がわかる、かと、思いきや、実は
あんまりわかんないなあと。青春時代って結構普遍的なものだな。
相聞の歌が多い。
歌人が出てくる歌が多い。
これは、どういうのなのかなあ。知ってる人同士という感じのもの、と、
いう気がして、いやあ私全然知らないからな、と思って、どう読んだら
いいかと戸惑った。まあ結局別に気にしないで読むしかない。

2017年の夏のことの歌もあったりして、おっ歌集作るのすごい早いのかな、
と。というか、んーー? 歌集というのかなんていうのか、んん~。
私家版、というか、でも、まあそっか基本的に歌集は自費出版が多いわけ
で、それって同人だよなーと思うと、あ、先週入稿したっていってた本が
ちゃんともうこのイベントに間に合ってるわすごい、みたいなこともありか、
と思ってみたりだった。


いくつか、いいなあと思った歌。


  君を待つ部室にきょうも死にきれぬ螢光灯がまたたいている (p14)

青春短歌という感じ。回想にせよなんにせよ青春の頃を歌うとき、
どうしようもなく甘い自己陶酔が滲むものだと思う。「死にきれぬ螢光灯」
という表現がいい。あ~~~ってなります。


  遠くから来しともし火をてのひらは囲みて終わらせ方を知らない (p31)

この歌は一連の中、高校の卒業式のあとの歌なので、青春の終わらせ方と
いうようなことかなと想像する。火をてのひらで囲むイメージが好き。
終わらせなくてもいいというか、終わらせ方はわかんないんじゃないかなと
思うようになってる私のお年頃。


  急に髪切ってどうするつもりでもない君が「髪、切ったよ」と言う (p50)

この~甘酸っぱい~若者たちよ、という感じ。どうしたんだよ何なんだよ
どうでもないことだよ、けど、こう歌になっちゃう感じ、わかる気がする。
君も僕もどうしようもなく、若者じゃなくてもこういう瞬間っていいですねえ。


  てのひらに溢れて英字ビスケット Kから順に殺されました (p106)

英字ビスケットは今もあるものだけど、なんとなくノスタルジック。私が
思うにKといったら漱石の『こころ』のKだよね、ってことで、なんか、わかる、
と、勝手に思ってしまった歌。英字ビスケット食べたくなる。


  そこにある梨とガラスと人の影 それらがみんないとしい一日 (p151)

  指そえて黄いろいボタンを縫いつけるだれのためでもなく夜のため (p159畢)

タイトルにしてる歌。と終りの歌。
すんなりと静かな感じ、やさしさがあって素直にいいなと思えた歌。静かで
少し寂しくて、でも悲しいとかではないひんやりとした感触があっていい。

青春かよーという感じはしんくわっぽくも感じたりしつつ、すいすい結構
面白く読みました。やっぱり普遍的なようであっても、でもやっぱり一人
一人の歌なんだなと思う。私には読み取れないことが大いにあって、でも
心地よく読み終えた感じはあって、よかった。

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『富士見』(結城文/飯塚書店)


『富士見』(結城文/飯塚書店)


2017年11月刊。第八歌集。

短歌の器、というものを思う。この歌集も基本的には作者の等身大に近い
日常の暮らしが歌われているのだと思う。
ちょっと説明的にすぎないかなあと思ったりもするけれども、こうして
歌集として読んでいくと、やっぱり小さなことの、ありふれたことの、
ひとつひとつが奇跡の瞬間と思ったりする。
生きてる中で見出したささやかな大切な瞬間が完成することができるのが
短歌という器の、様々なポテンシャルのひとつの在り方であるのだろうな。


いくつか、惹かれた歌。


  もう空を見ようとしない母とをり花首深く垂るるガーベラ (p14)

老いや死と共にある中の一首。これは、老いてあまり元気もなくなった母に、
いい天気だよ晴れて気持ちいいね、みたいなことを話しかけたのではないか。
でも、もう、空を見ようとしないんだな。その光景がとてもよく見える感じ
と、しおれかけてゆくガーベラが首を垂れている様という重ね合わせが
よく伝わってくる一首だと思った。


  はろばろと北よりわたり来し鳥の数を増やしつつ雪吊りの庭 (p37)

「六義園」というタイトルのある一連。ぐぐってみたら東京、駒込にある
公園なんですね。そこの、冬がやってくる頃のことか。「鳥の数を増やし
つつ」という表現になんかとても惹かれてしまった。端的な描写なのだと
思う。「雪吊り」というのもいい感じなのかなあ。わかんないけど私は
とても完成されたバランスに思った。


  お祭りに特価販売のペット・ボトル青蛙ひとつ貼りつきてをり (p53)

これも小さな発見を丁寧に描写した歌だと思う。あ、蛙がペット・ボトルに
くっついてる、と、作者が目を止めたその情景、心の動きがとてもくっきり
伝わってくる。そっかあ蛙がそんなところにいたんだねと、ふふって思った。


  わたくしの今日をそこにおく赤あかと夕日の海に向きゐるベンチ (p57)

  ゆるやかに飛行機雲は崩れゆきわれは以前と違ふ道ゆく (p99)

  散るものの散りつくしたるわが窓に明日ととのふる闇の寄りくる (p127)

夕日の中に。飛行機雲に。窓に。なんでもないものの中にふと違う何かを
感じ取り表現してる歌だと思う。「わたくしの今日をそこにおく」、
「以前と違ふ道ゆく」、「明日ととのふる闇」という表現がいいなあと
思って目にとまった。


  わが街にも英会話学校とパチンコ店駅前にありて明るく灯す (p152)

あるよねー。駅前に、パチンコ店。英会話教室。その光景、あるあると思い、
でもそれってあんまりうつくしい風景ではないのだと思うのだけれども、
そこを、ともあれ明かりである、としたのは強いなと思った。


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『眉月』(月子/風媒社)


『眉月』(月子/風媒社)


2017年10月刊。第一歌集。

作者のお名前、月子。歌集タイトルが『眉月』。読んでいるとうさぎも
しばしば出てくる。月が好きな人なのだなあと思う。
白い表紙、淡いグレイの月。中の見返し(?)にも月の絵? の、写真が、
あって綺麗な本で素晴らしい。

山田富士郎さんの結構長い解説がついていて、しかし作者のあとがき等は
なく、どういう作者像なのかはわからない。けれど、月が好きで、美意識
やこだわりがあって、という感じはよく伝わってくる歌集でした。
月の歌がほんとたくさんあるなあ。うさぎは実際にうさぎがいるのか、
そして自分の姿を重ねているのか、という両方かな。いろいろな道具立てが
優雅さがあって素敵。でも私の個人的好みはちょっと違うなあと思う所が
多くて、ん~なるほど、と、思いながら読みました。

いくつか、惹かれた歌。


  あの人はとうの昔に死にました。れんげ畑ももうありません。 (p27)

この歌集の中ではわりと乱雑な言葉の歌。端的で散文的、だけどその迫力と
いうか、不意に投げ出されたようなことばがむしろ目をひく。そして詩的。
好きだな。


  まつげすら青しと覚ゆ茂りたる若葉ふたりを包み尽くせば (p43)

若葉につつまれて睫毛まであおく、きれいな緑に染まる。清冽で幻想的で
美しい。私の個人的好みとしてはこの二人は青年二人だといいなあ。


  ティーバッグに湯をぞんざいに注ぎかけ男は飲みぬ色つきの湯を (p58)

紅茶か緑茶かわからないけど、多分紅茶かなあ。こんな適当なことをする
男に呆れているというか、ちょっと眉を顰める感じで見ていたのかなと思う。
「色つきの湯」という、それ美味しいの、美味しくないでしょう、という
感じ。でもこの適当なことする人物像面白かった。


  長雨の降り残したる眉月のおぼろに消えむいづかたとなく (p98)

すんなりと綺麗な歌で、素直にいいなあと思いました。

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『湖水の声』(藤田冴/ながらみ書房)


『湖水の声』(藤田冴/ながらみ書房)


2017年10月刊。第四歌集。

「わたし」が丁寧に歌われている。そして家族の事。姑の介護や身近に
不意に起こる死など。こういう、死との近さが私自身も全く他人事ではなく
感じられるので、こういう丁寧な歌の数々に頷きながら読みました。
とはいえ、実際自分はわからないことも多いし、それにやっぱりどんな
共感があったとしても、人の思い、人の経験は極めて個人的で千差万別。
それぞれの人にそれぞれの歌があるんだなあと、ここしばらく歌集読んで
改めて思う。

いくつか好きな歌。


  新しき手帳がしづけき量感を醸しぬ記念日書き入るるたび (p36)

ちょうど今まだ1月ですし。私も手帳使いますが、こうして手帳を自分のもの
にしていくんだなという実感があった。「しづけき量感を醸しぬ」という
表現が面白い。


  銀色のブレスレット欲し過ちはわたくしですと挙手をするため (p37)

いくつか、「欲し」っていう歌があったなあ。この歌、過ちを自ら挙手する
ために、というのが謎めいていて、でもそのために「銀色のブレスレット」
というのは、お守りのようでもありなんか納得するふさわしさを感じた。


  キッチンはしづかなうつつわたくしにうす焼き卵二枚焼かせる (p57)

多分あんまり楽しく料理している場面ではないなということだけはわかる
気がする一首。日常的に料理作る立場の人なんだよねとわかる。ほんとうに
さりげないなんでもない歌だけど、これなんだか惹かれる。「うす焼き卵」
というのがいいのかなあ。色鮮やかで、でも脆くて危うくて。こういう歌を
見ると具体が大事、ということを改めて感じます。


  ……ですねえ、諾ふやうなふりをしてあなたはもとも冥き目をする (p66)

初句が印象的。諾う返事をする人の「ふり」を見抜いて、冥い目であること
も見抜いて、作者は歌にしたんだなあ。実際なのかどういう場面なのかは
わからないんだけれども、その、ですねえ、という感じが伝わってくる。


  攻撃型認知もあると聞かされて守備なき吾は吸呑み洗ふ (p83)

  ブラウスは明かき花柄きのふより少しく綺麗な姑でゐるやう (p89)

年をとっていくってどうしようもないことで、それがどうなるかというのは
なってみないとわからないことで。「守備」って、ないよなあとかわからない
よなあと、思う。
そんな中でも髪を整えるとか、ブラウスに明るい花柄をとか、そういう
心配りがあるのが、シンプルながら尊い優しさだなあと思う。


  迎え火も送り火もなく屋上の人工芝を踏みて集へり (p103)

何もなく、人工芝、という状況ながら、悼む思いというのはやっぱり変わらず
にあるんだな。迎え火も送り火もあったほうがいいだろうし、人工芝より
もっと優しい自然の中のほうが心休まるだろうし、でも、それでも人の
営みも思いもいろいろに形を変えながら同じようにあるし続くし、という
ことを思った。事実の描写のみだけど深いところに思いが届く歌。


  洋梨を剥くのは愉しラ・フランスとふ名まへ出でこぬ人と対きあひ (p120)

  つゆ草の露に触れをり寛容なわたしの貌も少し見せねば (p134)

ラ・フランスという名前の響きはうつくしくて楽しい。露草の滴はとても
清らかに思える。そういうささやかなものに癒されるリアルを感じる。
生きていくって大変だよねえ。


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『花高野』(道浦母都子/角川書店)


『花高野』(道浦母都子/角川書店)


2017年9月刊。第九歌集。

これは等身大に近い歌集なのだと思う。基本的に「私」の歌が並ぶ。
家族は亡くなっている。自身に病がある。旅先でもその地の哀しみを思う。
過去があり今がある。
寂しさや苦しさがある。けれど、それは全て歌になってこの歌集に編まれて
いる。歌として書きとめるのは「私」のことを私から離して描くことだと
思う。それがとても、すごくて、こんなに等身大そのままのようだけど、
こうして言葉にあらわしている、自分への距離感というのがあって、歌は
美しくて。

あとがきにあるように「久々の政治の季節を含んだ歌集でもある」。
私個人的には、政治の季節というものに馴染めないのだけれども、こうして
季節の移ろいや個人の苦しみ日々の暮らしの中に政治の季節を含むのは、
やっぱそれは、さすが道浦さんということなのかなあ。それが歌になるん
だよなあ。それが等身大と感じさせられるんだもんなあ。凄いです。

いくつか、好きな歌。


  鏡台の中に雪降る気配してしばし紅筆とどめて居りつ (p17)

絵のように、でも決して絵では絵が消えない美しい歌。鏡の中の雪の気配。
静謐な空気かん。「紅筆」という道具がとても素敵。私はもう紅筆で口紅を
塗るような化粧を全然しないのだけれども、こういう佇まいにはとても
憧れる。うっとりした。


  しんなりと首垂れているダチュラ もうわたくしはうなだれないの (p37)

  自らの歌読み返し疲れ果つうたは私の影武者である (p43)

  哀しみはからだとこころの折り合いをつける間もなく差し違うこと (p59)

「ダチュラ」の名前のインパクトがある。ちゃんと思い出せなくてぐぐった
けど。チョウセンアサガオね。有毒だって。そういう花と対比して自分が
あること。そして私はもううながだれない、という宣言、でも全部平仮名。
すごく引き裂かれている感じがする。
「影武者」というのも、私であって私ではない、それが自分の歌、で。
影武者って、つまり、命を狙われてるような時にたてるものなのでは、と
思う。次の「差し違うこと」というのも。そういう苦しみとか不安とか覚悟
みたいな所にいる感じが伝わってきて美しかった。


  「シニア左翼」と呼ばれるわでも揺り椅子にくつろぐわれもいずれも私 (p83)

『シニア左翼とは何か』という2016年に出た新書があるようで、それを
お読みになったんですね。(この前の一首にある)その本に実際名前が
出てたのかどうかは知らないですが、「シニア左翼」という自覚を気負いなく
受け止めている感じが大人だ。とはいえ何か思う事もあっての一首かなあ。
そして行動する人だもんなあ。


  水の仙人 水仙一束活けられて湖畔思わす調剤薬局 (p104)

  あんなにも恨んでいたのに昔の人となりたる君は寒の水仙 (p159)

水仙の清らかさ、香、すがすがしさを思う。「調剤薬局」という場所が
湖畔になる、このイメージの展開、腑に落ちる。
「昔の人」になれば恨みある人も水仙の清らかさに思える、という、その、
それはどれほどの時間を経てのことなのだろう。たっぷりとした時間を
感じた。

  スズメ蜂のむくろゆっくり拾い上ぐ完全な死はあたたかきかな (p184)

これも。スズメバチの脅威も死してしまえばあたたかいものになる。拾い
上げるのも怖いけどなあと思うけれど、これは実景、んー実景でもあるの
かもしれないけれど、もっと象徴的な歌かな。何か許しているようだ。


  書き終えて宛名の主を浮かべつつ切手選ぶはひかるよろこび (p228)

これはすなおな喜びの歌と思う。切手という小さなものだけれども、綺麗な
可愛いものが沢山あって、それを相手を思いながら選ぶというのはとても
素敵なことだ。手紙の内容もいいものなのだろう。小さな喜びが、たくさん
ありますように。

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『花桃の木だから』(中川佐和子/角川書店)


『花桃の木だから』(中川佐和子/角川書店)


2017年7月刊。第六歌集。

今、暮らしている日常の中でのひとつひとつを詠んでいる歌集で、すんなりと、
とても率直な歌として受け止めた。
旅行、お仕事かなんか、いろんな所へ行っているなあとか、お子さんが仕事
してるんだなあとか結婚するんだなあとか、お母様のこともご心配ですねとか、
読みながら一つの家族の物語、世界を眺める気がする。

普通の暮らし、といってしまってもいいような世界なのだけれども、しかし
むしろ今「普通の暮らし」って実はものすごくミラクル、ということはわかって
いる。親がいて、子がいて、働いて、結婚して、孫ができて、って。そうそう
順調にいくものばかりじゃない社会になってると思うんだよねえ。少子化とか
晩婚化とかニートとか引き籠りとか。ここに歌われているのが単純に普通に
幸せばかりではないということはもちろんなのだけれども、なんだかとても、
ああこういう普通で、でも普通じゃない大切な日々という感じが素晴らしいなあ
と、ちょっと感動的だった。


いくつか、惹かれた歌。


  炎昼に下草刈りし青年の放心の貌も薔薇園のなか (p39)

お。耽美的雰囲気。多分写実的光景だと思うけれど「青年」「薔薇園」マジック。
素敵です。


  生き延びし恐竜を異なる思いにて勤め人の子と観ておりわれは (p74)

  然(しか)れども家族の靴を玄関に揃えて置けば明日あるごとし (p76)

親子、家族の在り方も子どもの成長によって変化してくるのだろうとわかる。
それでも玄関に靴を揃えておくというささやかなありふれた毎日の行為で、明日
という、本当はあるかどうかなんてわからないものを繋ぐことができるような、
そういう感触が一首になっていてぐっときた。


  地下鉄は退屈である わたくしに宝物ひとつふえる夏日に (p101)

  玄関でおかあさあんとわれを呼ぶ給食袋を忘れたように (p106)

  プーさんを好きであった子どっしりと共に生きると言うひと現る (p109)

  ドアのまえ秘書が社長を待つに似る電子レンジの前にわが夫 (p125)

  育んだわたしに別れる ウエディングケーキに今日はナイフが入って (p142)

子どもが育ち、わが子であることには変わりなくても、別の家庭に、別の立場、
妻とか母とかになっていくことを喜び、そして寂しむ感じがよく伝わってくる。
夫の姿がちょっとコミカルで、でもこんな風になんだかダメなのうちの人って
微笑ましく描かれてる感じはいいなあと思う。料理とか不慣れだけど始めてみた
ってことなのかなあ。


  方代をかたよとルビ振る人のいて方代の歌つくづくと見つ (p180)

山崎方代、ホウダイだよね。なんか不安になって調べちゃった。でもこれやっぱ
知らないとわからないし、まあそもそも人の名前って知らないとわからないし。
でもこういう、自分にとってはとか自分の世界ではあまりにも当たり前だけど
当たり前じゃない、ということを改めて感じる、ふっと立ち止まる瞬間という
のを忘れないことは大事だなあと思う。方代の歌っていうのがまたふわっと
しつつしんみりくる、よく似合う感じだ。


  花桃の木だから母をわれへ子へ次へ百年(ももとせ)継ぎてゆくべし (p202)

歌集のタイトルになっている歌。百年継いでいける木、百年継いで行ける親子、
血筋。「だから」という接続はなんの説明でもないけど、花咲き誇る感じが
明るくて、いいなあと羨ましく素直に降参~って思った歌でした。

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『去年マリエンバートで』(林和清/書肆侃侃房)


『去年マリエンバートで』(林和清/書肆侃侃房)


2017年10月刊。第四歌集。


タイトルはこれ、映画だよね? と思ってあとがきを見るとやはり映画から
もらったようで、曖昧な記憶、みたいな。歌集は特に映画絡みというものでは
なかった気がします。が。わからない。
正直私がこの歌集の世界に乗りきれないというか、読み切れない合わない
すみません私がバカで、という気がして難しかった。
京都の生まれ、今も京都です、というテイストがあるのと、塚本邦雄の名前が
しばしばあったり。「玲瓏」所属の方なのですね。
雑誌掲載などの依頼で短歌とエッセイという感じのもいくつか。様々な趣向を
凝らすことができ、確固とした美意識、歌の世界を作られているんだなあと、
あー、ほんと私の語彙では無理ーみたいなことをひしひしと感じました。

むつかしーと思いつつ、いくつか好きな歌。


  庭先のまるい日向にまどろめる明治を知つてゐるやうな猫 (p13)

これは素直に可愛いと思いました。猫、明治といえば漱石って連想もあるし納得。

  運河から上がりそのまま人の間へまぎれしものの暗い足跡 (p18)

これはクトゥルーみたいだなあ。それはともかく、暗い足跡だけ残した何かが、
人の間に紛れているというのはひやりと怖くて好き。東京の歌一連の中の一首で、
何かそういう暗いものが居る、ある、という社会詠的要素もあるのかも。


  さくらばなひとつびとつは蔵でありむかしのひとの名前を蔵(しま)ふ (p36)

桜といういかにも儚いものが名前をしまう蔵であるという見立てが面白いと思った。
春、桜、散りおしむものだけれども、桜は繰り返し咲くもので、儚くも永遠を
内包してるかもしれない。美しいです。


  足音に呼応して寄る鯉たちの水面にぶらさがるくちくち (p61)

池の鯉が餌をもらいなれていて、ぱくぱくと群れてくるのは不気味で怖いと思う。
そういうのがすごくよく見える一首で、「水面にぶらさがるくちくち」という
表現が面白いし上手い。


  ブランコを漕ぐといふ語のさみしくてどこの岸へもたどりつけぬ (p104)

ああ、漕ぐというと、船を漕ぐとか自転車を漕ぐとかということがあるけど、
ブランコは何処へも行かず同じ場所にいるんだなあと、改めて思わせられた歌。
ブランコ、鞦韆というもののさびしさのわけを一つ教えてもらった気がする。

そんなこんなも全然歌集として読みこなせなくて私ダメだなあ。うーん。
まあ合わないんだなあ。

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