『弓なりの海』 (北野幸子/青磁社)

『弓なりの海』 (北野幸子/青磁社)


2018年8月31日刊。第一歌集。

 未来入会から30年という中での第一歌集という。本そのものも、細い糸のような曲線が表紙から中まで彩り、くっきり横縞模様があり、優美な金箔のタイトルの文字があり、とてもきれいなもので、手にして柔らかく馴染むものだった。弓なり、とは、天の橋立、若狭湾をいうようだ。私は見に行ったことはないのだけれども、著者には身近なこの景色、自然が歌集の中に表れていて、心地よく読ませてもらった。

 基本的には、個人の穏やかな暮らしの歌で、親しみを覚える。特別な殊更な劇的な出来事でなくても歌は歌としてうつくしくある。暮らしていて、そうそう日々ドラマチックでもないけど、楽しさも悲しさもほんのりとあるよねえという自分の実感を思う。そんな中でも歌をよみつづける確かさを感じられて、いいなあと思ったし大切なことだなあと思う。


 いくつか、好きな歌。


  しなやかに伸びるセーター被りつつ赦されるボーダーラインを探る (p17)

 肌触りのいいセーターなんだろうな。「赦されるボーダーライン」とは具体的に何とはわからないながらも、なにがしかの罪を思い、赦す、赦さないということを考えるふとした瞬間の機微がある感触にひかれた一首。


  透明な玉かんざしが徐々に吸ふ祭りの果ての闇のうすあゐ (p24)

 お祭りがあって、着物、というか多分浴衣かな、そして玉かんざしを飾る装いをしていて。宵の果ての闇を透明な玉かんざしが吸う、というイメージの美しさがとっても素敵だ。妖しさがあって好きでした。


  冬の陽に投げ出すこころ葉ぼたんのやはらかき渦に巻かれてゆきぬ (p47)

 なんかこうやるせなくて投げ出してしまったりするこころが、葉ぼたんに包まれてくれれば、それは寂しくも安らぎのような気がする。こんな風におさめられるのは素敵だ。


  カーテンに抽象の花は連なりて春と思へば春の花咲く (p92)

 カーテンに花模様があるのかな。それは多分具体的な何の花という絵ではなくてシンプルな線画のような模様なのだろう、と想像した。それを見るものの思いによって春の花に見える。夏には夏の、秋にも冬にも、どんな花にも思い描けるのだろう。すごくいいカーテンのように思える。すごく自由なものなんだと思えて、いい歌だと思う。


  点滴につながれし母につながれて黄砂のつづく日々を籠れり (p122)

 母を見舞い、つきそっている情景がよくわかる。黄砂にふさがれている感覚と病室に籠る感じの気分が重なって、読んで小さな溜息をつくしかない気持ちになる。なんていうか全然私にはうまく言えないけれども、すごく伝わってくる感覚があって、沁みる一首。


  どの道を辿りてもここに着くやうな縁側の隅の一脚の椅子 (p158)

 人生のどんな道を経たとしても、とまで思うのは大仰だろうか。歳月を重ねてきていて、そして多分毎日のいろんなことがあって、でも縁側にお気に入りの椅子があるというほっとする気分だと思う。ささやかな、けれど確かな場所があってよかったような。縁側の隅の、けれど日当たりはよくて落ち着ける場所なんじゃないかな。そういう椅子が欲しいです。


  しらさぎをゆめの浅瀬に飛び立たすふるさとは円き弓なりの海 (p161)

 歌集の終りの一首。ふるさとをうつくしく愛しく歌っているとてもきれいな一首。

 全体的に歌のことばが柔らかく、リズムもよく、気持ちよく読ませてくれる歌集で好きでした。歌は調べだ、ということを改めて思いました。


|

『ラプソディーとセレナーデ』 (鷺沢朱里/短歌研究社)

『ラプソディーとセレナーデ』 (鷺沢朱里/短歌研究社)


2018年8月12日刊。第一歌集。

 重厚な歌集。歌数も多く本の重みもずっしりでした。
 独特な世界がみっしり詰め込まれていました。屏風絵の世界の歌、絵、画家、宝物、古い物語の世界の歌。章立ては「楽章」ということで、この一冊はクラシック音楽のような歌物語ということか。

 読むのに身構えてしまうのは、私自身の教養のなさというか、これ読めるのかなあと不安になってしまうから。作者はその題材に深く傾倒して歌をつくっているのだと思う。で、読む私は、どういう距離感で読めばいいんだろう、と、まず考えこむ。物語として読む、のだろうけれども、たんに連作から読み取れる物語って思っていいのかどうか、迷う。物語っていうなら小説のほうがいいわけで、歌として表現されている意味と意図って、どう、読み取ればいいんだろうか、と、私にはうまく腑に落ちてこない。作者の思いにまで私のほうがたどり着けないんだろうなあと思う。全然よい読者になれなくてごめんなさいと思う。

 で。ともあれ、私に読めるように読むしかなくて、歌から読める物語を味わう感じで読んだ。んでも私が作中主体っていうのか作中人物について知識も理解も足りてなくて、ん~、なんかこういう感じなのか、と、ふわっとした気分だけ味わいました。

 言葉が硬い感じが残る。単に鉱物だとか宝石みたいなのがいっぱいあって、っていうのもあるし、漢字、漢語がおおいような気がする、という気がする。ぱっと見開きの中に歌数多いし漢字が多いなあっていう、アホな感想もってしまって、ごめん……。
 こういう文体の作者なんだな。

 物語や古典に題材をとったものではない、多分極めて個人に近い歌として、うつのこととか祖父との農作のこととか介護の歌は、あんまり身構えずに読めて、比較的わかりやすい気はした。心情にもそうことができるような気がする。
 
 「古典的な美意識の復権」と帯にあったように、短歌というか、和歌というか、ただの今の日常とはかけ離れた美の世界を構築しようとする意欲の作歌で作家なのだろう。その美意識はとても素敵だ。ホント、読んでいて私がダメ読者で申し訳なかった。


いくつか、いいと思った歌。


  宵闇にふるへる手もて肉つかむ息きれぎれに君の名を呼び (p27)

 「青年二人同衾図屏風」という一連から。きゃ~随分赤裸々ですね///と思った一首。これは自慰のシーンととったけど、個人的思い込みすぎるかな。「肉つかむ」が生々しくてよい。


  空といふ青き皮膚すら冒しゆく悪しき肉腫となれ日蝕よ (p28)

 これも同じ一連から。空、日蝕、という自然を、皮膚、悪しき肉腫、という、生々しい肉の表現にしているのが凄味がある。日蝕って空が癌に犯されていくようなイメージなのか。凄い発想だと思う。古来思うまがまがしさが伝わると思う。


  クリニックに小さな竹が植ゑてある身の丈を生きよと言ふがごとくに (p51)

 なんだかひどいめにあって職場を持して心を病んでのクリニック通い。苦しさが強く伝わってくる一連の中、この一首の所で、ふ、と、変化が訪れたように思えた。小さな竹、身の丈を思って、いいんだ、大丈夫なんだ、と思える瞬間がきたのではないか。はりつめていた息苦しさから、ふ、と呼吸できたような一首に思えて、よかった。


  さくら色の鬱の薬をまた今日ももらひて風のなかに立ちをり (p55)

 たぶん小さなピンク色の錠剤なのだろうと思う。その薬を「さくら色」と捉えている繊細さの哀切を思った。すんなりとした歌だけれど切なさをとても感じて好きでした。


  ごはんだよチューブに柔き冬の陽のひかりも混ぜて介護する日々 (p63)(ルビ「柔:やは」)

 自分を助けてくれていた祖父に介護が必要となった。そのために資格もとり、そばにいる優しさと悲しさ。ごはんといってもチューブでのもので、でもそこにひかりを混ぜてという心情がしみじみと優しく、悲しかった。

 物語世界的な連作は、好きな一首とか選べなかったなあ。物語だから。
 あとうっすらと想像したのは、日本画かなにか志した想い人か恋人かがいたけれどもなくした、という背景があるのかなあ、と、なんとなく。
 たっぷりとした歌集でした。

|

『午後四時の蝉』 (竹内文子/砂子屋書房)

『午後四時の蝉』 (竹内文子/砂子屋書房)


 2018年7月8日刊。ほんとはタイトルの「蝉」は正字ですね。すみません。
 第四歌集。2007年から2017年の期間をほぼ年代順に編集したもの。

 著者のことはわからないなりに、読んでいくと浮かび上がる日常があって面白い。
 いろいろな国や地方に出かけているみたい。旅がお好きななのかなあと思う。海外も国内も、いろんな地名が出てくる。多趣味、教養人という感じがする。それをはっきり理解できなダメ読者な私という感じ。わからないなりにも、ほわんとイメージが膨らんで、軽やかさのある歌にくすっとなったり、楽しませてもらった。


 いくつか、好きな歌。


  ほらは吹く嘘はつくとふ秋の夜はほんにをとこの背のうつくし (p17)

 一首目がこれで、なんだかとってもいいなあと思った。ほらは「吹く」で、嘘は「つく」だなという、何やらその違いについて思う事ある秋の夜だったのか。そして眺める男の背中がうつくしい、って、誰の? なんで? とわからないのだけれども、なんだかほら吹きな愛しい男が目の前にいるようで、とても愛嬌があるように思えた。


  きさらぎの分厚き雲をしたがへて絶対君主のやうな落日 (p41)

 「絶対君主のような」という喩にとてもひかれた。とても赤々と見事な夕陽だったのだろうと目に浮かぶ。きさらぎということで、ひりひりと冷たい空気も感じる。かっこいい一首。


  一兵を見れば背後に百匹のゴキブリ兵が出陣待つとふ (p52)

 ぎゃー、って思ってしまった。ゴキブリ退治の一連のしめの一首。まだまだ続く戦いの予感がこわいながらもユーモアがあって面白かった。


  どこまでも落ちこむ国の蜘蛛の糸にぶらさがつてるわれら老い人 (p105)

 シニカルで、けれどじわじわと読んた私がどこまでも落ち込む気がする歌でした。仲良くぶら下がっていたらお釈迦さまが助けてくれるんだろうか。けれどきっとどこかで糸は切れて、天上のお方はやれやれとため息をついて見捨てるんだろう。やれやれ……。


  遅れたる「ひかり」の窓ゆきさらぎの横に吹かるる雪みつつゆく (p145)

 新幹線、ひかりによく乗っているみたい。新幹線から見る富士山の歌もたくさんあった。雪で遅れた新幹線が動き出し、しかしなお雪が横にくるという。列車の速度と雪の降りようで、冷え冷えとした気持ちがした。


  思ひ出を掬へばほろりと消えさうで もう帰らうといふこゑのする (p152)

思い出を思い出す時、思い出があるというのはそれがもう遠い過去でどうしたってどうしようもないもので。そういう切なさを感じた歌。その声は誰の声なのだろう。愛しく思う。


  くじ運は縁なきものと、でもさあと年末ジャンボの列に混じりぬ (p167)
  何もかもうまくゆかぬ日 三色のボールペンさへわれを嫌ひぬ (p168)

 「でもさあ」というタイトルです。あ~わかる~って一緒に言いたい感じ。でもさあ、当たるかもしれないし買わないと絶対当たらないし、年末ジャンボね~。そして何もかもうまくいかなくてボールペンにさえ、お前私が嫌いなのか、と語りかけたくなるような気分。「でもさあ」って、すごくいい。好きでした。


  降り初めばいざ帰らなむ雨の子がちりちり走る「のぞみ」の窓に (p244)

 お。のぞみに乗るようになったのですか、と思った。雨粒が窓にあたって、ちりちりとあとひいて横に流れていく感じですね。よく見えてくる歌。


  そりやあねえ骨折だつていろいろな場合があつてもとにかく痛い (p273)

 これすっごく率直な歌で、くすってなってしまう。大変なことなのですけれども。骨折を何度かなさっているようで、どうぞお大事にと思う。ほんと、とにかく痛いだろうなあ。私はまだ骨折したことがなくて。できればずっと経験はしたくない。とにかく痛いんだろうなあ。

 ずっしりたっぷりな歌集で読み応えありました。


|

『孤影』 (江田浩司/ながらみ書房)

『孤影』 (江田浩司/ながらみ書房)


2018年6月20日刊。

 2005年から2016年の期間の作品から329首を収めた、編年体を基本とした歌集。8番目の創作集、とのことで、第8歌集というわけではないってことかな? 詩とかいろいろもあったりするから? あまりわかりませんが。

 基本的に編年体、ということで、歌で、すんなり歌集として読み易くてとてもよかったです。歌を作ることを思っている歌がたくさんあるなという印象が残る。日々の中で、本当にすごくいつも歌の事、詩歌のことを考えてらっしゃるのだろうなあ。
 言葉というか、単語が硬いなあという印象も、なんとなく残る。死、という言葉も。
 『孤影』というタイトルが象徴する感触かなあ。重なるグレイの色の中に白く、かっちり、小さめの字で記されたタイトル。著者名。こういう気配を持つ歌集なんだなというの、なんとなく納得しました。私に読めてるかどうかわかんないしわかったとは言えないと思うけれど。


 いくつか、好きな歌。


  いくへにも死んだわたしが折りかさなり夕陽にそまる風を見てゐた (p19)

 死んだ私が死んで折り重なっている私を見ているような、万華鏡を覗き込むようなくらくらする感覚に陥った。風も死んだ私も見えないものだけれどその空虚を見ている寂寥感がうつくしい。


  月のおと聴く耳をもつ獣らがたづねてきたり夜明けの夢に (p43)(ルビ「獣:けもの」)

 月の音ってどんな音だろう。それがきこえる耳をもつ獣だけがきくことができる音なのか。とても幻想的で素敵なイメージで好き。「夢に」ってしちゃうのは私の好みとしてはなしだなーと思うけどまあ、な。


  君の傍にいつもしづかに踞る小さな影のやうにわたしは (p74)(ルビ「傍:そば」、「踞:うづくま」)

 この「君」は妻なわけですよね。ほんとうに仲良しご夫婦で素晴らしい。君のそばでうずくまるっている小さな影であるわたし、という控え目な、けれどいつもずっと、という愛ある思いでステキです。さらりとした静かなきれいな一首になっててすごくいいなと思った。


  日常に釣瓶をおろす営みのいやな感じはどこにでもある (p96)(ルビ「釣瓶:つるべ」)

 日常の中のいやな感じっていうのはあって、それを釣瓶をおろす と表現しているのが面白かった。


  わが内に潮のたまるところありことばの光りとどくときある (p130)(ルビ「潮:うしほ」)

 自分の中に満ちてくる潮があること、そこにことばの光りがとどくということ。それはいつもじゃなくて時々なんだなあという感じ。そんな風に歌が、詩が、この作者にはうまれてきているのかというのが伝わってきて、いいなと思った。そんな風にできた詩歌はとてもよいものなんだろうなあ。
 堪能させてもらいました。


|

『短歌と俳句の五十番勝負』 (穂村弘×堀本裕樹/新潮社)

『短歌と俳句の五十番勝負』 (穂村弘×堀本裕樹/新潮社)


2018年4月25日刊。

 歌人と俳人がいろいろな出題者から出されたお題にそって、短歌と俳句をつくってエッセイそえて勝負、という本。雑誌連載のまとめと、語りおろし(?)対談つき。
 題詠という決まりと、短歌と俳句の読み比べができて面白かった。解説ってわけじゃないけれどもエッセイつきなので読みやすいし。
 この本をテキストに読書会というか、読み合ってどーのこーのいう会に二回参加しました。こっちが勝ち~とか、このお題は難しいとか言い合って楽しかった。俳句の方たちとお話できてよかった。

 お題の出題者がけっこう個性的で、その人らしいなーという題が出たり、なんか、えろいお題をなんとかこなす、みたいなお二人の作品作りのご苦労を思ったりするのも面白い。
 エッセイでの、歌づくりの苦心とか、別に関係なく思い出話みたいなのも読めて、いきなり歌集とか句集を読むのはちょっと、と思う人でも読みやすく、というものなんだろうなあ。

あとがき対談、すごく読み応えあってよかった。歌とか俳句つくる工夫というか苦労というかの話。題詠は思いがけないことにとりくむことになるから大変だなあ。
面白かった。


いくつか、好きな歌や俳句。

題「まぶた」 左目に震える蝶を飼っている飛び立ちそうな夜のまぶたよ  穂村弘 (p30)

これ一番好きだった。うつくしい。すごく姿が決まってるなあと思う。きれい。


題「黒」 点描の黒猫の目の夜寒かな  堀本裕樹 (p67)

俳句ではこれが一番好きだった。点描という細やかさ、それが黒猫、で、その目にぐっと焦点がいって、夜寒、というのが決まってると思う。かっこいい。


題「誕生日」 垂直に壁を登ってゆく蛇を見ていた熱のある誕生日  穂村弘 (p126)

これ歌集にも入ってた。熱がある、というふわふわした身体感覚、それが誕生日っていうほんとうなら特別ないい日であるはずの日であること。そこで見た、蛇。垂直に壁を登っている、という、不思議な感じ。朦朧とした夢のような、けれどげんじつでもありそうな、ひかれる歌。


題「着る」 濡れ衣を着せられしまま秋の蜘蛛  堀本裕樹 (p155)

何の濡れ衣をきせられちゃったんだろう。蜘蛛って不気味、みたいな所と、しんと寂しい感じの秋の気配と。濡れ衣、と言う湿り気と冷たさがよく響いていると思う。好き。


題「瀬戸内海」 蝶生れて瀬戸内海の綺羅となる  堀本裕樹 (p183)

私は瀬戸内海地方というかまあ愛媛松山出身なので、瀬戸内の海の穏やかな波がこまやかにきらきらとしている景色を思い浮かべる。そこに生れし蝶、とは、幻のようなものだと思う。綺麗。

五十番勝負ってことでなのかなんなのか、著者のお二人が忍者のコスプレ? とかしてたりして、いろいろサービスしてくれている一冊でした。

|

『水中翼船炎上中』 (穂村弘/講談社)

『水中翼船炎上中』 (穂村弘/講談社)


2018年5月21日刊。4冊目の個人歌集になります、とのこと。

 しおりというか、「メモ」が入っていた。装丁が9パターンありますとかのデザインのこだわり紹介。読者へのガイドとして各章の背景、時代とかが「現代」「子供時代」「思春期へのカウントダウン」だとか説明されている。
 親切設計~と思う。こういうのって、歌から読者が読み取っていくのだと思うのだけど、穂村さんは、エッセイストという面もあって、エッセイは読むけど短歌ってわかんないとかいう読者にも親切にしたい、という感じのメモなのかなあ。あくまでガイドなので、そのガイドに従って読めばわかりやすいけど、好きな歌については私が勝手に深読みしちゃお、みたいなのもかまわないのだろうとは思う。

 ステキな装丁で、素敵な本で、17年ぶり待望の歌集!みたいなことで、おお~~~~、とわくわくで買いましたね。そして、読んでみて、おお~? これまでのキラキラな感じとは違って、普通に歌人の普通に歌集だなあという感じがしました。
 雑誌かなんかで歌集にまとまる前の歌を目にすることはあって、初見ではない歌もたくさんで、それはそれ、で、やっぱりこう一冊の歌集にまとまると、ああ歌集らしい歌集、という気がした。勿論当然すごいさすが上手いと思うし、穂村さんの感じ、という感じはする。小難しい歌はあまりないけれどもあたりまえの言葉なのに角度が独特な。ひかりの当て方が独特、な、というか。そうでありつつ、年をとって親の死や老いなんかに出会う一人の人間という感じ。
 そっかーこういう歌集出すのか~。と、なんか、なんかわかんないしうまくも言えないけれども、そっかー、という気がしました。そっかー。でもやっぱ私がわかんないんだろうかー。わかるわけないか~。けどなー。


いくつか、ひかれた歌。


  電車のなかでもセックスをせよ戦争へゆくのはきっと君たちだから (p15)

 若者を見る年長者、の視線。だけどさ、若者はもうあんまりそんなにセックスもしたくないんじゃない? いやまあ私若者じゃないしわかんないし、それぞれしたい人もいっぱいいるのだろうとは思うけど。セックスせよ、という視線の持ち方のおっさん臭が凄い。戦争とセックスの取り合わせ方も。歌かなあ。


  血液型が替わったひとと散歩する春は光の渦を跨いで (p25)

 血液型が替わることってある、か。あることはある。赤ちゃんの頃の測定が不確かだったりとか特別な病気とか。記憶違いってことだったりかなあ。その人を示すインパクトとして「血液型が替わったひと」っていうの、面白くて不穏な感じがします。光の渦ってなんだろうと思うけれども、渦巻くような春の陽だまり? うーん。わからないけれど、どっか平行世界に紛れ込んだようなふわふわと微かな違和感にひかれた。


  食堂車の窓いっぱいの富士山に驚くお父さん、お母さん、僕 (p29)

「楽しい一日」というタイトルの章の始まり。何もかもがレトロなノスタルジーに満ち満ちている一首。「食堂車」「窓いっぱいの富士山」「お父さん、お母さん」という言い方、そして「僕」。こんなこてこてにノスタルジー積み上げるって何事かと思う。こわい。こわくなって、これってノスタルジーの姿を借りたパラレルワールド異世界ものでは、と思いたくなる。
 ノスタルジーにひたるって、そのままの昔の思い出ではなくて、美化したり思い出補正みたいなのかけたりして、なんだか特別な過去の捏造って感じで、それってこうだったかもしれない、もっとよかったかもしれない、パラレルワールド妄想みたいなことかなあとまで思ってしまった。穂村弘だから素朴なノスタルジーなわけないか、と、なんか警戒してしまう、これは勝手な思い込みだけどな。楽しい一日かあ。


  楽しい一日だったね、と涙ぐむ人生はまだこれからなのに (p44)

 子供が楽しい一日だったね、と涙ぐむことがあるかな。これは違うのかな。楽しい一日だったね、と涙ぐんでいるのは親だかなんだか、大人のような気がする。楽しそうだった子どもの姿をみて感極まっているのかなあ。んー。いやー。違うか……。わからない。ただただ殊更な「楽しい一日」がこわいです。人生はまだこれからなのにもうノスタルジーの中に閉じ込められれている。


  夕方になっても家に帰らない子供が冷蔵庫のなかにいた (p87)

 これは、ゴミ捨て場の冷蔵庫に閉じ込められて子供が死んだ、みたいな事件があったんじゃないかなあと、曖昧な記憶。その、事件事故であってもいいし、うちの冷蔵庫に家に帰らない子供がいたら、というのでもいいかもだけど、そっけなく歌にされた帰らない、帰れない子どもの存在がとても不気味。ひやりとする闇みたいなのが、リアルだった子どもの頃という感じ。


  天皇は死んでゆきたりさいごまで贔屓の力士をあかすことなく (p118)

 これは昭和の終りの頃のことだけれども、ああもうじき平成も終わりますねという感慨にふける。天皇にも好きな力士はいて、だけどそれを言う事はできない、しない、というエピソードの印象深さ。天皇陛下も人間ですねということが当たり前ではなくてでも当たり前で、でも、という複雑さを思う。特に昭和天皇はなあ。好きなことを好きって単純に言えないっていうの、大変だなあ。というか昭和の終りの感じをこういう歌にするのか、と、面白かった。


  髪の毛がいっぽん口にとびこんだだけで世界はこんなにも嫌 (p130)

 これはすっごく、わかるーと口に出して賛同したいような、わかるーと思う歌だった。


  月光がお菓子を照らすおかあさんつめたいけれどまだやわらかい (p154)

  冷蔵庫の麦茶を出してからからと砂糖とかしていた夏の朝 (p159)

 「火星探検」という母の死の一連の中の歌。母のことは「おかあさん」で、可愛がられた一人息子で、母の死という現実がありつつも、それを遠巻きに眺めるような歌のつくりで、いっそう喪失の大きさ深さを思う。母に関することって作者にとっては甘いんだな。
 夏の麦茶に砂糖、というのが思い出話でよく聞くのだけれども、それって結局おかあさんが作ってくれた夏のさいこうの飲み物、っていうことなんだなあ。


  いろいろなところに亀が詰まってるような感じの冬の夜なり (p176)

 「いろいろなところに亀が詰まっているような感じ」っていったいどんな感じ?????とわからなくってすごい。なんだかわからない黒くて硬くてでもぐにゃぐにゃ生き物がふさいでるような感じ? なんだかともかくままならない冬の夜があるんだなと思った。
 綺麗な本でした。


|

『白髪屋敷の雨』 (河野泰子/短歌研究社)

『白髪屋敷の雨』 (河野泰子/短歌研究社)


 2018年3月10日刊。第三歌集。

 河野泰子さんのお歌をじっくり読ませていただいたのは合同歌集の『間奏曲』時で、以来未来紙上で拝読している。私の勝手な一方的な思い込みなのだけれども、河野さんの状況と自分の状況とが似ていると思う所があって、親近感、深い共感を持って歌を読むことが多い。自分が似てるなんておこがましくて申し訳ないのだけれども、なんとなく、勝手に思っちゃってます。とはいえ勿論作者のことは歌から読み取れることしかわからないし、知らないことばかりだし全然違うのだとも思う。けれどもこうしてまたじっくり一冊拝読して、ますます敬意を抱いた。

 東日本大震災の歌で始まる。2011年ごろからということで、歌集の終りの方には熊本地震のことに触れていると思う歌がある。2016年の4月か。5年間ほどの期間、徳島へ移られての日々が歌われている。
 歌としての姿がきれいで、歌っていることとの距離感、バランスがとてもいい。好きな感触。鬱々とした思いも、悲しみも、軽やかな諦めも、自在に歌になっているみたいだ。読みながら何度も、私はこういう歌が好きなんだなあと思った。


いくつか、好きな歌にそって。

  生といふものの健気さ紛れいりしカナブン幾度も硝子を打ちて (p22)

 ほぼ編年順に編まれた歌集とのことで、流れにそって読みました。前にお父様の状態がよくないということがあり、命や生死について思うこと多い日々だったのだろうと思う。この歌はカナブンが飛んでガラスにぶつかって、という、状況がわかって、姿、音までよく聞こえる見える。そこで思うのが「生といふものの健気さ」という切なさ。愛しさ。紛れ込んできたカナブンて、私は怖くていやなものなんだけれども、この歌の心情はとてもわかると思える。「健気」と表現することができるのにうたれた。


  斎場の石をたたける俄雨ほほづゑつきて見てをりしばし (p42)

 「父の死」の一連。近しい肉親の死にあうと、なんだか混乱し、あわただしくあれこれが進み、その中に淡々と黙々と流されていく。わざわざ枕元でわっと泣き伏したりはしない、というのが私の実感です。この歌の、しばしの俄雨があって、ふっとその流れの中のエアポケットみたいなゆるみを思って、ひかれた。いい雨だな。


  降りつづく雨のいちにち戸袋の蜂の巣に蜂はひつそりとゐて (p58)

 季節は秋の頃の歌のようで、秋の長雨のころだろうか。戸袋に蜂の巣があることをわかっていて、でも今は何もしていなくて、蜂も自分もひっそりと雨の中にふりこめられている静けさを思う。本当は蜂の巣は排除しなくてはというものだけれども、今等しく同じ家をわけあっているような感覚がして、好きだった。


  なぐり書きなれど書き継ぐ日記はもゆふべ殺しし蜘蛛の子のことも (p64)

 日記を書き続けていることは惰性のような所もあるのだろう。けれど、大事なことなのだと思う。蜘蛛の子を殺したということの、ひっかかり。そのことについて何を言うでもないのだけれども、日記に書いたこと。こうして歌になったこと。この微妙さがたまらなくて、いい。
 私も日記をざっくり書き続けている。素敵カワイイ手帳術みたいなことはできなくて、本当にただの殴り書きメモ。だけれども、なんでもない毎日、茫洋とした自分の一日一日を、なんとなくでもここに繋ぎとめているような気がする。と、自分自身のことをいろいろ思ってしまう歌たちなんだよなあ。


  ひとことで反転しうる間柄 ぐさりぐさりと霜柱踏んで (p72)

 それはどういう間柄なの。友達とか、血縁ではない家族ってことかなあというのは深読みすぎるか。関係というのは案外にもろかったりする。反転させるような「ひとこと」は言わずに、霜柱に八つ当たりして飲み込んだのだろうなと思う。「ぐさりぐさり」という感じ、すごく、わかる気がする。霜柱には悪いけど、寒い朝に踏み壊していくことができてよかった。


  一斉に旬がきたればたまはりて草食系の日々の食卓 (p110)

 これは春。で、私の個人的な思いなんだけれども、本当に、春の緑の野菜が、ことに豆が、まあもちろん旬というのはそういうものなんだけれども、義理家からも実家からも一斉に豆が届いて、緑ばかりを食べる時期がくる。有難く美味しいことなんだけれども、ほんとうに。「草食系の日々の食卓」に、春の陽や鮮やかな緑の豆の並ぶ食卓が目に浮かんで、ああ~そうだな~~~ってすごくわかると思った歌。「たまはりて」という思いが本当は大事ですね。今度の春にはその思いを私も持とう。


  濡れながら切りしひともとゆつさりと机上に置けばむらさきのあめ (p135)

 これは紫陽花の歌。紫陽花の花の大きさやつややかさがとても鮮やかで、重みや手触り、その時の空気感がとっても伝わってきて綺麗。


  蔦かづらからまる茶房におそき昼を姑と食みをり友だちみたいに (p149)

 姑さんと仲がよいようで、一緒に出掛けたりもしていて、「友だちみたいに」いる。こういうのは真似できないなあと読むのだけれども、でも、ただ無邪気に仲良しってわけでもないような淡い影ももっている感触が、「蔦かづらからまる茶房」にあると思うのは私の勝手な思い込みかもしれない。蔦のからむ素敵な喫茶店、って見るべきか。でもなんかどうしても、私の個人的感覚として、は、「友だちみたいに」は、単純に文字通りってわけではないでしょう、って、思う。まー、難しいよね。


  人はみな何をなさむと生を享く、な~んて。椿の厚葉が光る (p164)

 これはもう「な~んて。」に参りました。上句の仰々しさを軽やかにいなす感じがすごい素敵。思い悩み憂鬱なことはたぶんいっぱいあるしこれからもあるしもっと大変なことあるかもしれないけど、「な~んて。」って思っていこうって、思いました。


  花桃が咲き出してるよゆるゆると歩いてゆかうゆけるとこまで (p183)

 歌集の終りの一首。やさしくすべてを肯定するような、春の歌。自分のペースで自分の脚でゆけるとこまで歩いていこうって、思いました。
 上手さがとても自然でやさしくて、それに作者の視線や物事の捉え方や表現が絶妙で、こういう風になれたらなあと、憧れます。読んでよかった。

|

『わが唯一の望み』 (徳高博子/角川書店)

『わが唯一の望み』 (徳高博子/角川書店)


 2018年3月20日刊。第四歌集。

 一読、花なら薔薇、旅はヴェネツィア、クリムトの絵、キリスト教との関わり。西洋風だなあという印象がいっそう強いように思いました。あとがきによるとタイトルの「わが唯一の望み」は、フランスにある6枚つづりのタピストリーの一枚のタイトルだそうです。「貴婦人と一角獣」、2013年か、日本にきて話題、だったのを覚えている。見にはいかなかったかなあ。作者の解釈では唯一の望みとは神の祝福と恵を受ける事なのではないか、というような。
 そういう願いを持った歌集ということなのだろう。

 日常の中で、旅の中で、様々な物事に、人に、出会い、見ている視線の伝わってくる歌で、作者の世界をページをめくるごとに一緒に見せてもらうような感じがした。祈り、願いの思いも伝わってくる。
 言葉が端正で、押しつけがましさがなくて、心地よく読ませてもらった。


 いくつか、好きな歌。

  油絵を背景から描く画家逝きて真中に白き虚遺されつ (p23)

 こんな風に目の当たりにする死の在り様があるのか、と、その絵の真ん中の空白がまざまざと見える気がした。主題として描かれるはずのものは何だったのだろう。静物なのか人物なのか。わからないけれども、残された空白は絵の描き手の死そのもになったんだなあという驚きがあった。


  はつはるの白き光につつまるる薔薇なることのえいゑんの檻 (p32)

 光に包まれて咲いている薔薇を永遠の檻、とする捉え方が素敵。薔薇として在ることは他の花ではないという、それは薔薇という檻に閉じ込められているという、耽美だなあ。この世に何かとして在るってことはその檻にはまっているってことですね。


  図書室では私語を慎めとこゑのする徐徐にちかづく其の声の闇 (p103)
  凶暴さを匿ししづかな図書館のちみまうりやうよねむりつづけよ (p103)

 この二首が並んでいるページ、妙に迫力があって惹かれました。図書室って私には良いイメージの場所なんだけれども、静かにしていなくちゃだめ、叱られる、という恐怖があるのか。キングの小説で読んだことあるような気がする、と連想してみたりして。闇とか魑魅魍魎とかのこわさがいい。


  聖人像は鳥に説教する姿聖人は聖人として立ち尽すのみ (p142)

 像なので、動かないものなのだけれど。鳥に延々と説教し続け立ち尽くし、その尊いような、不毛なような。聖人像を「立ち尽くすのみ」とした結句になんだかとても惹かれた。


  ひたすらに花を散らせし鳥群の去りてしづけき春雨の径 (p163)

 鳥が桜を花びらではなく花ごと散らしているのを見たことがあると思う。その情景を思った。花も鳥も雨もうつくしく、ただただ春の只中にいる感じがとても綺麗な歌で、好き。

 本の表紙が、タピストリーの絵柄で鮮やかな赤があり、タイトルや著者名は金、表紙のベースはグレイ?緑?落ち着いたもので、手にした時から、綺麗な本だなあと思って。読んでみても歌も綺麗で、よかった。キリスト教に関するようなこととか、絵のことも、私の教養が足りなさ過ぎてあまり読めてなくて申し訳ない。その一端に触れることができて、よかった。


|

『揺れる水のカノン』 (金川宏/書肆侃侃房)

『揺れる水のカノン』 (金川宏/書肆侃侃房)


 2018年3月2日刊。
 30年ぶりの第三歌集だそうです。この方について何も存じ上げないのですが、不思議な、歌集、歌集なのだろうかこれは? と思いながらなんとか読みました。

 タイトルの「カノン」は音楽用語としてのってことでいいのかな。もうそんなところからわからないというか自信がない感じで読む。見開きで、歌一首、そして詩。この、詩? 詩は、ソネット形式って思っていいのかなあ。14行ではある、か。押韻とかはちょっとわからない。そこはこだわってるわけではない? 私がわからないだけか、わからない……。


  こよひ水辺にうすあをき卵孵りてひとといふひと殺めゆくうた (p76)

 この歌は素敵だなと思った、のだけれども、後に続く詩の方はうーんちょっとどうかなわかんないなと思って、その詩の方にひきつけてこの歌を読むのか、それはそれ、歌一首として読んでいいのか、詩との取り合わせとしての効果を見るのか、悩む。私は詩歌のセンスがないからな……。
 そしてこの作者の言葉選びの感覚があんまり私の好みとはあわないかなあと、読めば読むほど思う。言葉、呼びかけの大仰さとかかに私がのりきれない感じがする。詩的言語の異化みたいなことには、私はわかんないから単純に好みかどうかってしか見られないのだけれども、ん~~~好みではなかったな。
 そんなこんなで、これは、何? どういう本? と思いながら読んでみたのは面白かったです。私が読めなくてダメ人間だった。

|

『アネモネ・雨滴』 (森島章人/短歌研究社)

『アネモネ・雨滴』 (森島章人/短歌研究社)


 2017年9月26日印刷発行。第二歌集。

 私はこの作者のことは何も知らなくて、けれどもとても美しい歌集だという気配に惹かれて手に入れました。

 歌は概念的なものが多く、「少年」のイメージが美しい。耽美、という言葉を久しぶりに実感する思いがした。
 歌の背景に作者像というのはあまり浮かばないのだけれども、猫が好きで猫といて、そして猫が亡くなったんだなというのは現実なのであろうと思う。猫。私も猫が大好きで、嗚呼、と思う。猫、至高の生き物だものね。

 1999年から2014年までの歌から三百三十首を収録した、とあとがきにある。期間は長いけれども随分厳選してなのか、歌数は多くない。その余裕というか、余白にうっとりひきこまれて読む、綺麗な本だった。本のサイズはふつうよりちょっと大きい中に、一ページ二首というのが典雅である。その歌のゆったりとしたうつくしさも感じる。

どの歌も完成度は最高で、好きな歌、として付箋つけるのは難しいというか、選べないほどどれも素敵だ……ってなってしまう。うーん。どうなのか。選べない。猫の歌は、好きだから好きっていいたくなるけど、猫好きだから、わかる~って気がするけどわかってない気もするし、そしてやっぱりうちの猫、というものだと思うので、猫の歌はこの人のものだなあと思ってしまう。猫はよいものですから。

 「少年」という言葉の、概念の、持ち方が、この作者と私は違うんだろうなあという気もした。少年、ことに美少年だろうなって思うのすごくすごく素敵なんだけれども、でも私の思う所とは多分違うんだろうなと思った。すごくすごく素敵だけど私もただならぬ思い入れみたいなのがあるんだなあと、改めて自分のことを思ったりしました。少年、いいよね少年。いいよね、すごくいいよね、と思う歌が並ぶのだけれども、なんか、選べない。難しかった。


 それでもいくつか、好きな歌。


  くちびるは何と婚姻交すべきなべての言葉少年拒む (p17)

  呼び声に振り向けるとき少年の姿はなやし桜狩らるる (p21)

 絶対美少年じゃんとしか思えない。桜に攫われる系の少年の儚さ、美しさ、エロス。言葉を拒み、姿を消してしまう存在、というか、存在の儚さとしての少年だなあ。


  誰にも似ない少年が来る銃よりも偽薔薇の死をたづさへて来る (p118)

  金輪際椿に触れぬ触れさせぬ ゐるはずのない神を殺しに (p119)

  声もらすのにふさはしき口 千年をもてあそばるる少年、弥勒よ (p120)

 上三首はうまく意味がとれないと思いつつ、すごく惹かれる言葉たちで付箋をつけた。銃、薔薇、しかも偽薔薇っていう重たさがいい。次は椿。赤い椿だと思う。早春の冷たい、緑の葉はあれどもまだ寒々しい景色の中の鮮やかな椿の赤を思う。そして「ゐるはずのない神」を殺すという、この過剰さがいい。好き。やられる。
 弥勒菩薩の半跏思惟椎像を思い浮かべるわけですが。あのほっそりした指とか柔らかなはかなげな姿とか。それを少年と見立てて千年もてあそばれるという、声もらすっていう、あああ~なんて、エロス、ごめんなさいって思いながらもえころげてしまいました。なんという耽美。


  さてここにきみの片腕ひつそりと置かれし外は白き淡雪 (p153)

 川端康成の『片腕』を連想。あったよね? 男が若い娘の片腕をかりて一緒に寝たりするあれ。ひっそりとした片腕。白い淡雪。清楚な静謐な中にエロス。フェティッシュでとてもよい。


  骨傷む傘の柄握りしめきみは昨日の雨の中から来たのか (p161 ルビ「傷 いた」、「昨日 きのふ」)

 歪んだ傘を握りしめて、そんな傘だから多分雨に濡れて、きみはいる。「骨傷む」は傘のことだけれどもきみのことだよね。雨がやんだばかりできみはまだ濡れている感じ、と私は一読イメージしたけれども、「昨日の雨」をどうとるか。ほんとはもう雨はやんでいて、傷んだ傘はたたんで携えているってことか、な。んー。ともあれなんだかとても痛々しいきみがいて、そのきみはきっと美少年で、そのきみを前にして作中主体は何にもできずにいる感じが、とても、ドキドキします。好き。


  遠くからやつてくるものあなたへとページをひらく あなたをひらく (p183)

 これもちゃんと読めない感じがする。遠くからやってくるもの、が、あなたにページを開いて見せて、そのものが、それからあなたをひらく、というふうに互いにひらきあってる感じと思っていいのかなあ。わからない。単純に見れば「もの」は本で、過去なり場所なりどこかを描く物語なり思想なりの本、で、それを読んだあなたの世界がひらかれるような、感じ、と、んーと、理屈になるかなあ。本のようなものをイメージし、けれどそれはものじゃなくて人の喩かな。ひらきあう、この、歌集そのものであり、本の世界、書き手と読者、みたいにも言えるかも。わかんないけど、この互いをひらいてみせる感じがとってもエロスでいいと思って惹かれた。本のイメージも好きで。この歌集の最後の一首です。

 全然私が読めてなくてダメだな。とてもうつくしいと思ったんだけれど、私がついていけてないんだろう。でも読んでよかったです。

|

より以前の記事一覧