『ジャコメッティの肖像』(ジェイムズ・ロード/みすず書房)


『ジャコメッティの肖像』(ジェイムズ・ロード/みすず書房)


2003年8月刊。

先日映画の「ジャコメッティ 最後の肖像」の映画を見てすごく楽しんで、
このモデルのジェイムズ・ロードくんの本を読みたいと思って。翻訳ある
かなあと思ったけどやっぱりありました。

映画の中でも写真撮ってた、あれがきっと、あるはず!と期待して、ちゃんと
写真沢山入っててよかった。絵の変化を見られてすごく嬉しい。
まあ、ジェイムズ・ロード、カメラマンというわけではなく、たぶん映画の
中であったように、パチパチっとスナップ写真のように撮ったものでしょう、
ざっくりキャンバス撮ったもので、ほんとざっくり大まかな感じしか
わからないけど。まあ、素描ですし。仕方ない。それでも十分、とにかく
異様に顔、顔、顔に集中してる筆致が見えて、面白い。黒い塊の中に顔だちが
浮かび上がってきたり消されたりまた浮かんだり。
身体はほんどにざっくり輪郭だけなんだなあ。
顔。
顔かあ。

著者ご本人、モデルしてる姿の写真もあって、これほんと映画の中のアミハマ
ちゃんすごい、再現してるんだな~ってわかって感動です。身長までは
わからないし顔も違うけど、座ってポーズしてる感じが、まんまです。素敵。
恋愛関連のあれこれ的なのはこの本にはなくて、あれは映画の脚色なのか
なんか当時のエピソードみたいなのが後々わかってのことなのか、わからない
けども、まあ、それはそれで、ま、いっかと。


ジェイムズ・ロードは1922年、ニュージャージー州イングルウッドの生まれ。
美術評論家、エッセイストだそうです。第二次世界大戦中、兵士としてパリに
滞在、ピカソと親交を持ち、パリの芸術家たちとの交流をエッセイとかで
発表したみたい。翻訳もある、『ピカソと恋人ドラ』。いずれ、ピカソに
興味持ったら、読む、かなあ。んー。どうかな。

このモデルを務めた期間は1964年9月12日から10月1日までの18日間。
まあでもさっくり短い方なのではないのかなあ、ジャコメッティ的には。
最初は一日で終わるってことだったのにと思うと辛いね、と思う。
ジャコメッティのモデルをしながらの会話等が読めてすごく面白い。
ジャコメッティ、やっぱり何かと苦悩して、出来ない、描けない、って
言っては、でもこんなに上手くいったのは人生で初めてだ、とかも言い、
二人の仕事、をどこまでいけるかやってみよう、っていうのを目の当たりに
してしまうと、やっぱりつきあっちゃうものなんだろうなあ。
勿論ジャコメッティの芸術家っぷりをもともと好きで交流してたのだろうし。

以前読んだ矢内原伊作の話の方がすごく、すっごく、もえるんだけれども、
ジェイムズくんの距離感もいい。最初は単純に嬉しそう、のめりこんで
共犯関係のようになり、でももう帰国したい、終りがないものに終りを
もたらしたい、という、ちょっと、たぶん、逃げたい感じとか、面白く
読めた。
矢内原くんはもうどっぷりって感じがもっと強くあったよなあ。時期の
違いとかかな。
この1964年にはジャコメッティ63歳だって。この前の年、1963年に胃癌の
摘出手術を受けているそうだ。1995年の12月に心臓発作で倒れ、66年の1月、
急逝、とのこと。


いくつか、好きな所引用させてもらう。


 「金曜日にはパリに戻って来る。帰ったらすぐに、私は彼のためにポーズ
 すると約束していた。カンヴァスに簡単な肖像スケッチを描くだけ、という
 のが彼の考えだった。それはほんの一時間か二時間、かかったとしても
 午後いっぱいですむはずだった。
  土曜日は九月十二日だった。私は三時ごろアトリエに行った。彼が戻って
 いなかったとしても、驚くには当たらなかったろう。彼の計画はしばしば
 突然変更されるのだ。しかし、私は彼が電話のある部屋に座って床を見つ
 めているのを見つけた。ロンドンはどうでしたかと尋ねると、「万事問題
 ない」と答えた。それから私をしばらく不思議そうに見つめ、そして「少し
 ぼくたちの仕事をしようか」と言った。」 (p5)


 「彼は描き始める前にしばらく私を見ていた。それから、「きみは野獣の
 頭をもっている」と言った。
  私は驚いたが、楽しくなって、「ほんとうにそう思いますか?」と尋ねた。
  「もちろんさ!」と彼は大声で言った。「きみはほんものの殺し屋の
 ようにみえる。もしぼくが見えるとおりにきみを描くことができたら、
 そしてその絵を警官が見たら、きみはただちに逮捕されるだろう!」
  私は笑ったが、しかし彼は言った。「笑わないでくれ。ぼくはモデルを
 笑わせてはならないんだ。」」 (p9)


 「何時間も前に起きてからというもの、コーヒーを飲んだほかにはなにも
 食べていないので空腹だ、と彼は何度も言った。私はもう一度、おしまいに
 しましょう、と促したが彼は拒んだ。
  「ぼくたちはいまはやめられない。うまくいっているときにやめようと
 思った。しかし、いまはとても悪くなっている。遅すぎた。ぼくたちはいまは
 やめられない。」 (p11)


 「私たちが仕事を始めることができるようになったときにはもう四時半を
 すぎていた。描き始めると彼は言った。「気付いたのだが、きみは正面から
 見た顔が野獣に見えるだけでなく、横顔は少々変質者のようだ。」彼は
 にっこりと笑い、こう付け加えた。「正面の顔は牢屋に行かねばならないし、
 横顔は精神病院に行かねばならない。」
  私たち二人は笑った。彼は冗談を言えたが、同時に着手しているまったく
 楽しみのない仕事のあまりの大きさに意気阻喪しているようにも見えた。彼
 は半ば自分自身に、半ば私にたいし、この仕事がどれほど不可能であるかを
 つぶやき続けた。
  「ぼくは自分の時間を三十年も無駄にしてきた」と彼は言った。「鼻の
 付け根ですら、ぼくがなんとか描けると思える大きさをこえているんだ。」」
 (p27)


 「私は自分が中国人のことも日本人のこともまったくよく知らないという
 ことを認めたが、これに対して彼は数年間にわたって日本人の大学教授、
 矢内原伊作と極めて親しかった。この日本人はその間多くの油彩と彫刻の
 モデルをつとめた。私は彼が彼自身と矢内原とのあいだになんらかの相違
 を自覚しなかったかどうか疑問に思った。二人のあいだの本能的な態度や
 反応になんらかの基本的不一致を、異なる背景や国民性や人種により生じる
 かもしれない不一致を感じなかったか。
  「まったくなかった」と彼は言った。「彼はまさにぼくのようだった。
 それどころか、あまりにも長く一緒にいたので、僕は彼を基準とみなす
 ようになった。ぼくたちはいつも一緒だった。アトリエで、カフェで、
 ドームやクーポールで、ナイトクラブで。ぼくたちはあまりにも長く一緒に
 いたので、そためにある日ぼくは奇妙な経験をした。矢内原がぼくのために
 ポーズをしていると、突然アトリエにジュネが入ってきた。ジュネが非常に
 変に見えた。とても丸い、非常に赤い顔で、膨らんだ唇をしていた。しかし、
 ぼくはこのことについてなにも言わなかった。それからディエゴがアトリエ
 に入ってきた。ぼくは同じ感じがした。彼の顔も非常に赤く、そして丸く
 見え、彼の唇は非常に膨れて見えた。どうしてそう感じるのかぼくには理解
 できなかった。まもなく、突然、自分がディエゴとジュネとを、矢内原の
 目に映ったにちがいないような有様で見ていることに気付いた。ぼくは
 あまりにも長時間あまりにも熱心に矢内原の顔に集中していたので、彼の
 顔がぼくにとって基準になってしまったのだ。ほんの一瞬の間――非常に
 短いあいだしか続かない印象だったが――ぼくは白人を、白人でない人たち
 に見えているにちがいないような見方で見ることができた。」 (p46)

(視覚まで共有するかのように二人はひとつ、ってなっちゃってっ。ジャコ
メッティと伊作くん~。それを言わずにいて、ジェイムズくんに話すとか~。
たまんねえな)


 「ジャコメッティはモデルとのあいだに情緒的な関係を作り出す傾向があり、
 それはモデルに対するほとんどロマンチックな感情となる、とジャン・ジュネ
 は書いている。これはある程度はジュネの独特な主観の投影であるかも
 しれないが、しかしいくらかの真実も含んでいると私は思う。少なくとも
 私の場合、感情は相互的だった。そのような感情が存在することは驚くには
 あたらない。ジャコメッティはとりわけ激しく全身全霊をかけて仕事に
 うちこむ。」 (p47)


 「ジャコメッティのためにポーズするという経験はきわめて個人的なものだ。
 たとえば、彼は作品のことだけでなく、自分自身のことや彼の人間関係の
 ことについてもあまりにもいろいろ話すので、モデルのほうも当然同じ
 ように話さなければならなくなる。このような話は、ポーズすることと
 描くことという行為に固有な持ちつ持たれつのほとんど超自然的雰囲気の
 なかに、特別な親密さの感じを容易に作り出す。相互関係はときにほとんど
 耐えきれないものとなる。モデルと芸術家との一体化ということがあるのだ。」
 (p48)


 「私は路地に出て、ディエゴのアトリエのほうに戻った。「あまりうまく
 いってないです」と私は彼に語った。
  「明日はよくなるだろう」と彼は冷静に答えた。
  私たちはほかのことを話していた。突然、私はアルベルトの叫ぶ声を 
 聞いた。「ロード! ロード!」私は彼のアトリエに通じる路地のほうに
 戻った。「もう少し仕事をしよう」と彼は言った。「これをこんなふうに
 放置しておくことはできない。」
  「わかりました」と私は言って、腰を下ろした。「ですけど、すぐ暗く
 なりますよ」
  「きみはいらいらし始めているのか?」とかれは尋ねた。
  「いいえ」と私は言った。
  「きみはきっとぼくのことを憎んでいるにちがいない。」
  「そんなこと、ばかばかしい。どうして私が?」
  「こうしたすべてのことをきみに強いるからだ。」
  「ばかなことを言わないで下さい」と私は言った。
  こう言ったものの、絵を描くこととポーズすることという特別な行為と
 して表現されたかぎりでは、そのときの私たちの関係にはサドマゾ的な
 要素があった。進行中の私たちの共通の仕事を取り囲む苦悶の雰囲気の
 原因が二人のうちのどちらにあるのかということは、ときとして決定し
 がたく思われた。私は、モデルとして、偶然的な要素ではあるが、それ
 にもかかわらず、仕事を続けていくためには欠くことのできない要素では
 ある。その結果として、彼の意気阻喪の原因は私の見かけなのに、それを
 私の人格のせいであると取り違えることも、ときに容易に起こった。他方、
 たとえ彼が私なしに仕事ができないとしても、絵は彼なしには存在しえ
 ないだろう。彼は絵を絶対的に支配していた。これを――絵の本性、彼
 への私の賛嘆、完成した作品を所有したいという私の願望、そして私が
 ポーズをするためだけにパリにとどまっているという事実、これらを考慮
 に入れて――拡大解釈すれば、彼は私をも支配していたのだ。絵はどうか
 すると物理的にも想像上にも私たちのあいだに束縛でもあり障壁でもある
 ものとして存在するように感じられた。しかしながら、その成り行きが、
 曖昧とは言えないものの、不可避的に複雑なものとなる状況ではどんな
 行為が彼と私とのどちらの側で、どうしてサディスティックであり、
 そして/あるいは、マゾヒスティックであるかを正確に決定することは
 困難だったろう。」 (p83-84)


 「彼は疲れと寒気を訴えた。ロンドンに行く直前に風邪に罹っていたのだ。
 私は彼にしばらく横になって休むように言った。一時間後、彼のベッドに
 行った。彼は服を着たままベッドのなかにいて、『寒い国から帰ってきた
 スパイ』を読んでいた。」 (p92)

(ル・カレ! 映画でもいってたけどほんとだったのね。この時流行ってた
ってことかなあ。いいよねえ)


 「アトリエのなかの光はしだいに暮れていった。だか彼は仕事を続けた。
 私たちは二人きりでそこに永遠に取り残されてしまったように思えた。
 まるで絶滅した針葉樹の樹脂でできた琥珀のなかに閉じ込められた先史時代
 の昆虫のように。「ぼくはきみをつかまえた」と彼は言った。「きみは
 もうぼくから逃げられない」彼の言おうとする真意がどういうことなのか
 私は自問した。しかし、それはどうでもよいことだった。彼の真意がなん
 であれ、事実としてそれは真実だった。」 (p99)


 「「じゃあ私が関わることはなんらかの意味で積極的なものだったと感じて
 いいんですね。私は自分のことを、セザンヌ夫人のように、ただのリンゴ
 だとは感じていませんでした。
  「もちろん、そんなことはない。モデルはとても重要なんだ。矢内原と
 カロリーヌじゃきみがポーズするときしてきたのと同じように、ポーズする
 ことはこの仕事に積極的に関わることだと自覚していた。といっても、
 それは簡単なことではない。ぼくはそのことを承知している。だが、ジュネ
 は、ポーズすることは完全に受動的なことだ、と感じていたね。彼は自分
 が物に変えられていると感じて、それでポーズするのをやめたんだ。それは
 まさに文学的な態度だとぼくは思った。」」 (p105)


 「次の日はゴゴ二時半ごろに、私はタクシーでアトリエに行った。
 アルベルトはそこにいたが、絵はすでに、まだ乾いていないまま、輸送用
 に梱包され、胸像とともに運び去られていた。
  「あれは行ってしまったよ」と彼は言った。
  「私が行ってしまいました」と応えた。「出発します。とても妙な感じ
 がします。」
  「とても残念だ。ぼくたちはようやく一歩を踏み出したところなのに。
 これからずっと続けられたのに。」
  「わかっています」と私は言った。「私がこの数週間のあいだほかの
 とこよりも長い時間をすごしたこの場所にいること、そしてこれが最後
 だと承知していることは、とても妙なことです。」
  「きみは行ったきりじゃないんだろ」と彼は言った。「戻ってきたら、
 また始めよう。ぼくたちはもっと遠くまで進もう。」
  「そうですね」と私は言った。」 (p153)


 「私は彼に手紙を書いた。その返事に、彼はこう書いてきた。「ぼくは
 いまスタンパに来て一週間になる。ぼくはたくさん仕事をしている。
 たくさん寝てもいる。同じものを続けている。いつもあの頭たちだ! 
 いつの日にか、きっときみの頭をもう一度やりたいものだ。きみがぼくの
 ためにポーズしてくれてたとき、いつでもぼくはとても楽しかった。」
  私もだ。」  (p155)


あとがきの前↑これで終り。完結で素晴らしい。
すごく、画家とモデルという、特別な、物凄く特別な関係がある。
美しいなあ。
いっぱい書き写したけど、たくさんもっといい所ある。読んでよかったです。
  

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『去年ルノアールで』(せきしろ/マガジンハウス)


『去年ルノアールで』(せきしろ/マガジンハウス)


2006年に出た本。
「無気力派文士せきしろの初エッセイ集」だって。
雑誌連載2000年~2004年のエッセイをまとめ、加筆修正一部書下ろし、
だそうです。
2000年て。それもなんか思えば昔だなあ。せきしろさんは1970年生まれの
ようなので、30代前半って感じか。私ほぼ同じ年だなあ。
書いてることの感じがわかる、って気がする。けど、ほんとは全然わからない。
東京暮らしなんて夢にも思ったことない頃だなー。

と、そんなこんな、読みながら自分のことのように思ったり。
いやあそんな毎日ルノアールに通うとかできないしたことないけど。
そしてルノアールって、喫茶店、うん、関東来てから何回か行ったことは
あるけど、こう、こんな、なんか、その、そういうたまり場みたいな感じ?
この当時はそうだった、この街ではそうだった、っていうことなのか?
西荻、なー。
いやわたしは中央線沿線に住んだことはないしわからない、けど、まあ
イメージはある。あーなんか私も関東きてそろそろ10年近いんだっけ。
うわ。
最初杉並区で、井の頭線沿線で。吉祥寺ぶらぶら遊びにいってってしてた。

と、なんかこう自分の事思い返してしまうな。

雑誌連載でこのエッセイあったら毎月楽しみに、脱力しながら読んだだろう。
面白い。
毎日ぶらぶら特に生産性のあることをするでもなく日課としてルノアールに
いって、しょうもなくちょっと奇妙な人や出来事があってしかし何でもない、
という感じ。
もちろん事実、の要素も多少はあるんだろうけれども、いやあ。
妄想? なにその妄想? なにその展開???
と、読んで、ふふっとして、あーなんだかなあって思って。

月日は流れ、って思うのは、2003年1月、「例えば“いいとも”が最終回
を迎えたとする」という始まりの文章とか。
「いいとも」ほんとに最終回がきたねえ。2014年だったらしいぞ。と、
今ぐぐってみたよ。もう、年月を覚えていないワタシ。。。
2004年10月、小室、KEIKOの名前が。小室さん、引退するってねえ。と、
あれは去年のことだっけ。みたいなことを思ったり。

ふわふわ読んで面白かった。

  
  

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『カキフライが無いなら来なかった』(せきしろ×又吉直樹/幻冬舎)


『カキフライが無いなら来なかった』(せきしろ×又吉直樹/幻冬舎)


せきしろさんの本を読んでみよう第二弾。(個人的に)

これ2009年刊行。これ、出た時、お笑いの又吉さんの本、って感じで
ものすごく面陳されまくってたのを見たけどその時は手にとらなかった。
何の本なんだかわからない。
自由律俳句、らしい。無季自由律俳句? かな? よくわからない。
俳句のことはもっとわからないし。

で、中を読んでも、なんの説明も解説もなくて、わからない……と思いつつ
どんどん読んだ。
これを俳句と名づけたいのは何故なんだろう。そのー、自由律したい人が、
俳句とか短歌とかの枠をつけて外れて、っていうのが私にはわからなくて、
そういう名前の枠なしで、一行詩、ってことにすればいいのでは??と思う。
けどまあ、何かしらの名前の枠があるほうが親しみやすい? いや、詩って
ことだけで良くない?? と、思う。ん~。

でも読むとこれ面白いなーってずずーっと読みました。
こういうのこそ、才能の世界なのか。
詩だなあという感じはする。
もちろん、いや? なんで? 全然わからない?? ってのもたくさん。
でも分量多いんだよな。この畳みかけてくる感じのじわーっと迫力あるの、
おされて、うう、面白い、と思ってしまう。うーん。
ページの右がせきしろさん。左が又吉さん。この、どっちがどっちなのか
よくわからない感じ。呼応してる、わけでもない、なんか、その配置とか
そういうのもよくわからない、ような。わかる、ような。
そして時々挟まれるエッセイ? 文章、も、面白くてとてもいい。
まあやっぱり私は散文が好き。文章がいいと好きになれる。

自由律俳句、なのか、どうか、わからないけど、好きだなと思ったのに
付箋つけたらすごくいっぱいつけまくりになってしまう。
好き、と思える瞬間と、それで付箋つけまくりになって、いやちょっと待て、
と思って見直すと別にそんなよくもない、と、外しちゃう感じと、
すごく揺れ動く。なんだろうなあ。詩ってそういうものかなあ。まあ、
なかなか簡単にはこれだってゆるぎないものに出会うことは、少ないから。

読んで読んで、うーん、ってなったり面白かったしハッとしたり。
なんかすごくじわ~~っとわかる~って思ったり。わからないけど好きとか。
読んでみてよかった。言葉、言葉なあ。言葉の力を思う。

いくつか、好きなもの。


  不法投棄されたゴミ達にも夕立  又吉直樹

  玩具で子供に撃たれる何度も  せきしろ

  どれも全巻ないあなたの家で  せきしろ

  あの猫は撥ねられるかもしれない  せきしろ

  花束でドーナツ店の席を確保している  せきしろ

  空車タクシーの連なりが獣みたい  又吉直樹

  耳鼻咽喉の看板が阿鼻叫喚に見えた夜  又吉直樹

  結婚式の写真を見なければいけない流れ  せきしろ

  スズメが何か小さいものを食べている  せきしろ

  手で触れられた所が熱いのだが  又吉直樹

  いると思って話していた  せきしろ

  あの娘も僕も市外局番は同じ  又吉直樹

  古本屋の店主が同い年  又吉直樹

  不機嫌なのが伝わってなくて驚いた  せきしろ

  誘われるまで帰るふりをする普通に普通に  又吉直樹

  潰れた店の中造花だけ生きている  せきしろ

  文房具売り場で試し書きされた蛍光のバカ  せきしろ

  部屋に蜂が入ってきたもうだめだ  せきしろ

  雪が静かにしてくれている  せきしろ (これはエッセイつきのやつ。病室にお見舞いに行って、見舞い相手は寝ていて。ものすごく好きだった)

  まだ何かに選ばれることを期待している  又吉直樹


又吉さんは芥川賞作家になったもんねえ。小説も、いつか読むかなあ。

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『ダイオウイカは知らないでしょう』(西加奈子/せきしろ/文春文庫)


『ダイオウイカは知らないでしょう』(西加奈子/せきしろ/文春文庫)


この前トークイベントへ行ったきっかけで、お名前だけは見たことある、
だったせきしろさんの本を何か読んでみようと、まずはこちら。短歌だし。
西加奈子さんもお名前だけは知ってるけど、初読み。

基本的に二人とゲスト、三人で短歌作ってみようそれを読んでみよう、
そして雑談のするする~っと読めてちょっと短歌に親しむ感じがして
楽しい本だった。

単行本は2010年刊行らしい。で、この文庫は2015年刊行。
ダイオウイカというタイトルが、そうそう深海のダイオウイカブーム
みたいなのとちょっとかぶったりなんとかの偶然もあったりだったなあ。
小説家、西加奈子さん、文筆家、せきしろさん、という肩書なのね。
西さんが、ダ・ヴィンチの企画で歌会に参加して、短歌にちょっと興味
持った、んで、これはananで編集者さんが連載企画やりましょうって
始まったものらしい。

せきしろさん、最初は俳句と短歌間違えてるとかいう所からのスタートで、
すごいな~。

初回はそのスジの人、穂村弘さんがゲスト。次は東直子さん。
まーそうですね。短歌でっていったらこの二人、それに俵万智さんだね。
他にもゲストいろいろな人で、お喋りしてるな~って感じが、ちょっと
ぎこちなさそうとかすごく楽しそうとか伝わってきて、面白かった。
歌人の人がきてるときはともかく、別に短歌の話してないじゃん!な時も。
でも歌つくってみてそれをもとにお喋りっていうの楽しいね。

歌は、最初は、いや、あの、まずは57577定型のくらいは、あの、その、
意識してほしい、と思ったけど、なんだろうねえ、さすが二人とも文学と
いうか、言葉の使い手っていうか。
西さんはドラマチック、一首の中に外に物語を広げる感じ。
せきしろさんはふざけているようなのにハッとする詩的さ、落差、を
ぽいっと書きなぐってるような感じで、うう~これは凄い、という感じが。
こわいわ。
才能。

一年半続いた企画でまとめで、まあ、私が何がわかるってものでもない
けれども。終りの、西さんせきしろさんが互いの短歌によせた文章、の
ところ、心底しみじみ面白かった。短歌とエッセイ。こういうのすごく
いいなあ。さすが上手い。楽しかった。


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『特捜部Q ―自撮りする女たち―』(ユッシ・エーズラ・オールスン/ハヤカワポケットミステリ)


*ネタバレしています。


『特捜部Q ―自撮りする女たち―』(ユッシ・エーズラ・オールスン/ハヤカワポケットミステリ)


シリーズ7作目。

失業中で保護を受ける為、社会福祉事務所で知り合った女たち。デニス、
ジャズミン、ミッシェル。彼女たちはまともに働く気はない。彼女らの担当官
アネリはソーシャルワーカーとしてアドバイスをしているのに立ち直ろうと
しない彼女たちのような受給者にうんざりしていた。

後頭部を殴られて死亡、という事件が過去に女性教師殺害と共通点が多い、
と気づいた退官した刑事。古い事件を取り扱う特捜部のカールに話が
持ち込まれる。しかし現在進行中と思われる事件に特捜部は関わらないよう
煙たがられている。

そして、特捜部のメンバーであるローセは、かつてないほどに精神が参って
いた。限界を超えた彼女にカールたちが気づいたのはローセが姿を消して
悲鳴のような言葉がみっしり殴り書きされた壁やノートを見てからだった。


そんなこんなの、今回もいろんな要素、事件が盛り沢山。
デンマークは福祉国家として世界でもしあわせな国、って感じだけれども、
まあそりゃもちろんこういう不正受給でのらくらしようって人達もいるんだ
ろうねえ。ほんと、特捜部読むようになってから、まあ、そっかそうだよね、
どんな国も社会も理想郷ってわけじゃない、って思う。
それでもいろんな社会のしくみがあること、考え、みたいな所、あんまり
ちゃんとわかるわけじゃないけれども、いいなって所も感じたりする。

ハーディの介護士のモーデンは今作の中では恋人ミカと別れちゃって
泣いてるけど、終りの方ではちょっと断絶からは回復してるっぽい。
というか、ハーディが少しずつ体が回復するかもしれない、という希望が
出てきた、と、思っていいのかなあ。感覚がほんのちょっと戻ってきそう、
かも。てこともで、どーなんだろう。カールのトラウマ、ハーディが死に
かけた一番最初の所の、事件が描かれるかなあ。その前にアサドかな。
これシリーズ10作の予定だったはずだから、ん~、先にアサドかな。
そしてカールたちかなあ。
なんにせよ続きを早く読みたいすぐ読みたいとまた思わせてくれた。

デニス=ドリトたちみたいに、やっぱ女の子は若くて綺麗じゃなきゃいけない、
という強迫観念的なものは、まーそっかデンマークでもそういうのは
あるか~と思ったり。
福祉のために働く人が虚しくなっちゃったりやけになっての正義感に
かられたり、っていうのもあるかーと思ったり。
母と娘のなんか、呪いの連鎖みたいなのも思ったり。ちょっとナチス絡みな
要素もあったりして、ほんと、みっしりあれこれありながら、怒涛の終盤で
繋がり解決、というか、ともあれ決着つけるの相変わらず凄いわ。
ちょっとシリーズ、ダレたな~とか前思った気もするけど、今作はまた
面白く、読み出すとぐいぐいいけた。読みやすくなってきてるかなあ。
作者も翻訳も読者もこなれてきたって感じなのかもしれない。

で。
今作ではなんといってもローセの心の危機が、限界崩壊をしてしまって、
それをカールたちが救えるのか、というのがいっちばんハラハラドキドキ
した。自殺とか、たまたま巻き込まれての拘束監禁で、もしかしてほんとに
間に合わなくて死んじゃうかも、と、思ってしまった。Qの主要キャラだし
大丈夫でしょうと思いつつも、でもシリーズも終盤だしと思ったりして。
一度はカール達が近づくけど気づかなくて、あああああっも~~~っ、
カール!アサド!気づいてよっ早くローセを助けてよーーって焦らされる。
結局間に合って、多分ローセは回復するはず。
ローセが、子どもの頃から父親に虐待、モラハラ的な酷い虐待にあって
きながら、ローセ一人が盾になって妹たちを守ってきたこと。
父が工場の事故で巨大な鉄の塊に潰されて亡くなったのを目の当たりにした
こと。それが、本当にただの事故だったのかどうか、と。
みんなに嫌な奴だと思われ、煙たがられ、彼さえいなければ、と、工場の
トラブルでみんなが迷惑こうむりそうだったこと、で、計画された事故。
ローセもほんの僅かに、その計画の一端を知らされぬまま担ったこと。
ローセの心の負担を、真相と当時の工場にいた人達の苦しみと謝罪で、
少しでも減らせたんだと思う。ローセには回復してほしい。次作で、は、
無理かどうかわかんないけど、ローセにちゃんと戻ってきて欲しいよ。
始めは別にただの奇抜キャラかと思ってて、こんなにもシリアスに辛い
ことになるとは思ってなかったわ。ローセのこと、ほんと、私もすごく
好きになってるなあ。
ゴードンくん、若僧くんな、ローセと向き合えるのかなあ。わかんないけど
なんか、ゴードンくんもがんばれ。

カールとアサドもますます息ぴったりというか、すっかり相棒。
アサドの物語もきっと描かれるはずだと思ってるけど、どういうものに
なるかなあ。その時カールはどうするんだろう。早く読みたい。

モーナとは別れてたけどカールはまだまだ未練たっぷりで、モーナと、
またちょっと近づくかな、って感じ。
このシリーズの中ですっかりキャラが生き続けててそれぞれの人生
いろいろあるよね、生きるって大変って思う。早く次が読みたいよ~。

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『ヒットの崩壊』(柴那典/講談社現代新書)


『ヒットの崩壊』(柴那典/講談社現代新書)


2016年11月刊。

「最近のヒット曲って何?」という問いかけから始まる一冊。音楽のヒット
とは何か。かつてのCDミリオンセール連発の時代とは違って今は音楽が
売れなくなっている、といわれているが、本当か。CDの売り上げは下がった
けれどもフェスの動員数は増え続け音楽業界の在り方が変わってきている
ということ、等々がさっくり読めてよかった。

CDの売り上げ不振とはいえ、コンサートとかフェスとか、生の体験って
方向にシフトはしていて、やっぱり音楽好き、音楽にお金払う層っていうのは
がっつりあるよねえという感じがある。

私個人的には、ライブに行ったりはもうほとんどしなくなってるし、フェス
みたいなのにもまったくついていける気がしないので、今後も物凄く時代遅れ
にCD買ってくんだろうなあという所。配信ダウンロードとかストリーミング
だとかを使いこなせる気がしない。。。うーん。
ラジオ聞いて気になった曲ぐぐったりYouTubeで見てみたりしてCD買います。
たぶん、これからも。。。でもそう、CDという物の発売がなくなっていく
ようになるんだろうなあ。うー。頼む。発売してくれ。。。

あ、私が聴く、買う、のはほとんど洋楽。CDもあまぞんでインポート。
でも物が欲しいレトロガラパゴス人間。。。世の中の変化についていく
のは難しい。

みんなが知ってるヒット曲、という役割というのは難しくなってきたとは
いえ、やっぱりこれからも出てくるし、むしろ世界規模での大ヒットと
いうことが今後は増えるんだろう。そこに日本人アーティストが絡むか
どうかはともかく。
日本国内でのヒット、っていうのは、どーなのかねえ。やっぱアイドル?

アニメ映画「君の名は。」からのとかがあったのを思うと、テレビより
むしろ大ヒット映画が生まれればそこからっていうほうが国内全国的
全世代的にはいけるような気がする。テレビCM、テレビドラマからって
いうほうがニッチになりそう。

この本はざっくり一年あまり前の刊行で、小室さんに取材しての話が
あって、ああ~小室さん。。。という気分にもなる。音楽の移り変わり、
人の移り変わりは、やっぱり突然だったりするんだなあ。
この本時点ではSMAP解散が大きな変化だけど、その後はあるし、ヒット
メーカー小室さんが不倫報道なんかと介護問題で疲れ切って引退という
宣言しちゃったりで。

一発屋みたいなのがへって息の長い音楽活動をするアーティストが増えた、
というこの本の論調はその通りだと思うけど、とはいえやはり有名人で
あることが厳しくなってきてる感じは、うーん。どーなんだろ。
大ヒット飛ばして有名人になるより、そこそこで着実なファンがつくほうが
いい社会になってるのかなあ。

音楽、私は映画をよく見に行くので、音楽のかっこよさを思う時に、
予告編を映画前にけっこう沢山見せられるたびに、日本映画がたまに
まざると、致命的に音楽がかっこ悪いだろ、と、すごく思ってしまう。
私のかっこいい基準がどうしようもなく洋楽方面に偏っているのであくまで
個人的に思うことなんだけど。
今だと「空海」なー。せっかく中国との共同?かなんかで壮大にやってる
っぽいのに、あの音楽はねーだろーと思ってしまう。その前にマーベル
や「ブラックパンサー」の予告なんかあったりすると、もう、その、
ほんっと日本の映画の音楽かっこわる。。。とテンションが下がる。
まー個人の好みだけど。
邦画の音楽って、どーなってんだろうね。あのがっくりくる主題歌システム
とかどーにかならないのか。。。まあ、これも個人的好みの問題だけど。
でもな~~~。

と、このごろの音楽シーンについてざっくりとした流れを知る事ができて
面白く読みました。

 
 はじめに
 第一章 ヒットなき時代の音楽の行方
 第二章 ヒットチャートに何が起こったか
 第三章 変わるテレビと音楽の関係
 第四章 ライブ市場は拡大を続ける
 第五章 J-POPの可能性―輸入から輸出へ
 第六章 音楽の未来、ヒットの未来
 おわりに

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『猫は踏まずに』(本多真弓/六花書林)


『猫は踏まずに』(本多真弓/六花書林)


2017年12月刊。第一歌集。

本多さんのことはもうそこそこ長い間知ってる人で、歌集の感想書くのって
そういう人のもののほうが難しいよねー。
基本的に作者名と、実際本人というのは切り離して読むんだけれども
難しくなる。けど、まあ、あったことある人知ってる人っていったって、
その人の全部を知ってるわけないし圧倒的に知らないわけだから、あんまり
気にしないで読むしかない。

ともあれ、本多さんの歌集は待望の、というものであるのは間違いなくて、
ツイッターでもたくさんの引用が流れてきたりする。
まず本の見た目からしてすごく可愛い。ツイッターアイコンの桜餅の
写真がベースなのでしょう、桜餅みたいなピンクの猫が葉っぱにつつまれて
いるはっきりした線の絵。すっごい可愛い~!
表紙のベースは緑色。白抜きで、くにゃっとした字でタイトル。この
タイトル文字もデザイン凝ったんでしょうね。手触りもいいし、ソフトカバー
で、普通の単行本よりちょっとだけ小ぶりでとても手に馴染む感じの本。
中の遊び紙もなんかすごい上等なのでは。中表紙とか表紙の折り返しにも
凝ってるし。猫のシルエットなイラストもいっぱい。これは愛される~。

栞は、花山多佳子、穂村弘、染野太朗。解説は岡井隆。さすがゴージャス。

製作年にはこだわらず編んだ歌集だそうです。
一冊読むと、会社員として働く姿。想像の世界。一人の女として生きている、
生きていくこと、という姿が見えてるくるように思う。
思ってたよりもずっと、ずっと、「女」ということがテーマにあるように
感じた。
たぶん、生きていく上で、「女」という性を意識させられる、せずには
いられない、ということが「男」よりは多い。
仕事が大変とか、生きるの大変とかは、性別関係なく誰にもありうること
なのだけれども、そこにしばしば「女だから」ということを、多分ことさらな
悪意なくても押し付けられたり自分自身が考えてしまわずにいられなくなる。
そしてある程度の年を重ねれば「産む」ということを。
そんなこんなは面倒でうんざりで、自由になりたいし考えたくもない、と
思うんだけど、私は。岡崎さんの歌集読んだ時にも思ったけどこの歌集を
読みながらも考えたりして、読めば読むほどなかなかつらい、と思う。自分
のことのように読んでしまうのだ。そう読めるのは、歌という作品に完成
させてまとめられているからなのだろう。
面白く読ませてもらいました。


これも付箋だらけにしてしまいそうなところ我慢していくつか、好きな歌。


  わたくしはけふも会社へまゐります一匹たりとも猫は踏まずに (p10)

巻頭の一首。タイトルの歌。印象強くてすぐ暗唱してしまえる。みんな引用
してるね。自分は猫を踏まないけど猫に踏まれまくってる日々みたいな気分
になる。丁寧でちょっとおかしみのある風だけど、「まゐります」って
この丁寧さは諦めだと思う。猫がいてもいなくても、踏んでも踏まなくても、
踏まれても踏まれなくても、会社に真面目に行く。信頼できるなあ。


  ですよねと電話相手を肯定しわたしを消してゆく会社員 (p13)

  ミントタブレットどうでもいいことのどうでもよさに嬲られてゐる (p13)

  女子トイレ一番奥のややひろい個室に黒いサンドバッグを (p16)

  ああ今日も雨のにほひがつんとくる背広だらけの大会議室 (p18)

  パトラッシュが百匹ゐたら百匹につかれたよつていひたい気分 (p21)

「猫は踏まずに」の一連は会社員としての日常という感じ。私自身は社会人
してた頃には下っ端だしポンコツな方だったからなあ。とはいえ一応は働い
てた。ある程度真面目に働く誰もが共感してしまう歌たちだと思う。

電話相手はお客様だか上司だか、で、そういう受け答えには無難にならざる
をえなくて。優秀な会社員は「わたし」という個を消すこともできる。
「嬲られる」というこの漢字を選ぶ気持ちがすごい伝わる、どうでもいいこと
のうんざりの連続。
女子トイレにはやや広い個室があるし、サンドバッグが欲しくなるものだ。
背広だらけの大会議室。そういう、社会。会社。
パトラッシュの歌はツイッターで最初流したのだと思う。すごく人気も
あった。「フランダースの犬」のあの場面のことは、ある世代、でも、多分
世代超えて共通して想起できる場面かなあ。ネロは天に召されてしまうけど、
召されないで。。。疲れたよって、もふもふのパトラッシュが、いればいい
のに。百匹でも千匹でもいればいいのに。いない、この、途方もない疲労感。
こんなに軽やかに優しくでも果てしない疲れを言える歌、凄いです。


  いつしらに母を産みしかキッチンでわたしが母をあやしてをりぬ (p39)

自分がすっかり大人になれば親は老いる。老いている。母のほうが子どもの
ようになっている。「母を産みしか」と捉えている感覚が不思議ですごくて、
とても優しいなあ。


  ひらかれるときのわたしのかなしみをきみのからだも知ればいいのに (p53)

  ひらがなのやうにをんなのもつ肉のゆるりゆうるりたれてゆくなり (p79)

おんなのからだ、おんなの肉、を、かなしみ、愛おしみしている感じ。やはり
ひらがなだよなあと納得してしまう感じ。文字を眺めていたい歌です。


  目にふたがあつて耳にはないことをたしかめたがるひとのくちびる (p101)

  きのふけふあしたあさつてしあさつてあたしあなたのこゑをきく耳 (p108)

耳っていいよね。耳ってすごくいいよね! それはともかく、どちらも
セクシーだけどいやらしくはなく、切なく切実で、素敵だ、とうっとりした。


  あたらしいメールがきみに届くたび目のまへにゐるぼくはうすれる (p114)

「ミント×チョコレイト」という、BL短歌っていう一連から。
BLは好きですし、BLというネーミング以前からこじらせてますしという私
としては何か言わなければなるまい。ってことはないけれども。もちろん
BLといったって人ぞれぞれいろいろに思い表現するもので、別に私がそんな
BLに詳しいわけじゃなく。
一連、ふわあっと綺麗だったり、でもそこをちょっと外してきたりという
工夫があって面白かった。そして別に特にBLだからって読まなくてもいいし
読みたければどんな歌でも何でもBLだよねと言えるわけで。
引いた一首はこの目の前のきみとぼくの関係の切実さがいいなあと思った。
なんかこう、メールひとつにこんなに思ってしまう気持ちっていうのは
とてもとてもきゅんと切ない。怒るでもなんでもなく、自分が相手にとって
うすれてしまうんじゃないか、という、怖れ、ね。
次の一連は百合短歌ってことだそうで。それも、きれいな一連でした。女の子
ってやわらかい、と言いたくなるような。
ただ、ほんっとただ個人的好みというか性癖というか、私が思うにはなんか
綺麗ですてきだけどつるっときれいすぎるような気がするなーというか、
うーん。短歌だからなあ。難しいけど。ほんっとただ個人的好みなんだけど
私が求めるBLは、もちろんきれいなのも大好き、いい、けどもっとがっつり
きてくれ、って、特にこの数年は思ってるので、BL短歌だからってもえる
ってわけでもなくん~短歌だと難しいなあと、勝手なことを思ったのでした。


  ひかりごと啜る白粥はふはふといのちを生きていのちは産まず (p130)

白粥を啜ってる、多分あんまり健康ではない、弱っている状態かな。
そんな時、生きてるなあ、と思う。産むか産まないか、どちらかという
ことを女は多かれ少なかれ意識してしまう。せざるをえない。自分の年や
生活の中に、いのちを産むことができるかできないか、を、タイムリミット
つきで考えてしまう。まあ、考えてしまうのは私なのだけれども。そんな、
生きる時間を思うのでした。刺さるー。考えたくないけど、こういう歌が
ほんと刺さるんだ。自分の歌として読んでしまう。
作者と私とは多少の共通点があるとはいえ、全然違うのに、こうして自分の
歌として読んでしまう~という歌が沢山あって、それはやっぱり短歌として
うまく、短歌として昇華されている作品なのだと思う。

歌集出版おめでとうございます。読めてよかった。


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『羅針盤』(本川克幸/砂子屋書房)


『羅針盤』(本川克幸/砂子屋書房)


2017年11月刊。遺歌集。

遺歌集なのだ。
本川さんというほどの接点があったわけではない。同じ結社で、同じ時に
未来年間賞を貰った。それ以前にも未来賞で注目があったので、未来の
誌上で歌を拝見していたばかりである。
訃報を知った時の事を覚えている。嘘でしょ、と、思って、しばらく嘘かと
間違いかと思っていた。享年51歳だそうだ。

歌集として改めて歌を読んで、控え目に秘めた思いの強さのある、歌として
よく言葉を選んで作り上げている作品だと感じた。
佐伯裕子さんの解説や奥様の「あとがきに代えて」で、お仕事は海上保安官
であったと知る。北国の海での厳しい日々があったのだと思う。そういう
背景を知って、雪の実感が増す。今、横浜にいても寒い。先週、今週も
雪のある厳しい冷え込みの冬である。勿論北国と比べるべくもないけれども、
寒さの実感を思って読んだ。

歌、よくってあれもこれもと付箋だらけになりそうな中、いくつか。


  秋の日の言葉を包む封筒に百舌の切手を貼る「飛んでゆけ」 (p16)

これは未来へ詠草を送る時の歌かなと想像。とはいえそうでなくても、秋の
日に大事な言葉を手紙にして送るときめきが伝わってきて素直にいいなあと
思える歌。最初の頃は詠草を送る封筒、切手、ポスト、全部にお願いします、
って感じで祈りをこめて出してました。今は最初ほどじゃない、けど、やっぱ
今でも毎度切手貼って出しに行くのは格別な気持ちがあるなーと自分のこと
を思った。


  一さいは過ぎて行きます一さいは過ぎてゆきます がらんどうなり (p37)

「一さい」という表記が、最初は一歳? んん? という感じがして、でも
何もかも全てが過ぎてゆくどうしようもなさが伝わってきて、その最初の
ゆらぎを呼ぶのも、うまいなと思う。がらんどう なんだな。


  こわれても修理をすればよい船とこわれたままで働く心 (p59)

  君のいる街が遠くに見えている雪のなか君の街がとおくに (p60)

  右腿のケースに銃を差し入れて「彼ら」と呼ばれているそのひとり (p61)

これらは仕事柄、現場、という重みを感じる。船は壊れても修理をすれば
直る。こころは、修理するのは難しいというか出来ないというか。それでも
そのまま働くのはとてつもなく切ない。
君がいる街を、海から眺めているのかなと思う。雪の中、君、とおく という
繰り返しが心からの祈りのようで切なくて寒さと涙に街の明かりが滲んで
いるのではないかと思う。
「銃」があるのは現代の日本では尋常なことではない。でも、作者の世界
には時に現れるものなのかと思う。その厳しさを思う。「彼ら」という
存在を思う。私に明確にわかるものではないけれど、このリアルが歌で
伝わってくるって凄い。


  夕焼けがこわいのですか夕焼けを見ていることがこわいのですか (p70)

これも繰り返し、少しずらした繰り返しが切実さを伝えてくる歌。こわい、
悲しい寂しいを含んで、一日の終りがこわい、のかなあ。問いかけは誰か
に向けたものというより自分自身のものだと思う。私、上手くとりきれ
ないけれども、好きだ。


  体内は古き公園 誰もいないベンチに春の雪積もらせて (p117)

体内が古い公園、という初句のインパクトが凄い。公園だけど誰もいない。
ベンチには雪が積もる。けれどそれは春の雪。かすかな希望がある。
うつくしい一首。


  救えない命を乗せて走る船 分かっているが陸地はとおい (p137)

淡々とした事実の一首なのだろう。「とおい」ということのやりきれなさ、
苦しさをこういう一首にしているのがとても切ない。「海に死ぬ」という
一連。こういう出来事に向き合う仕事だったのか。


  冬の波に吸わるるために降りてくる雪を吸わるるまで見届けぬ (p144)

自分も海上にいて、雪が降ってきて、果てしなくあてどなく雪が空から海へ
消えていくのを見ている、という一首だと思う。この厳しい冷気、無限の
儚さ、うつくしさが描き出されている歌、美しいと思った。

読めてよかったです。

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『いとしい一日』(喜多昭夫/私家版)


『いとしい一日』(喜多昭夫/私家版)


2017年11月刊。

個人的な歌集なのかな。著者のあとがきや略歴の類もついてないので
どういうものなのかはわかりません。
自転車の写真の表紙とか自転車の写真のトレーシングペパー?な遊び紙とか、
章の見出しのデザインに凝ったりしててきれいな本だなあ。

「アキオ 17歳 1980」という所から始まって大学生時代のこと、今、
という流れがあって、この一冊で作者像がわかる、かと、思いきや、実は
あんまりわかんないなあと。青春時代って結構普遍的なものだな。
相聞の歌が多い。
歌人が出てくる歌が多い。
これは、どういうのなのかなあ。知ってる人同士という感じのもの、と、
いう気がして、いやあ私全然知らないからな、と思って、どう読んだら
いいかと戸惑った。まあ結局別に気にしないで読むしかない。

2017年の夏のことの歌もあったりして、おっ歌集作るのすごい早いのかな、
と。というか、んーー? 歌集というのかなんていうのか、んん~。
私家版、というか、でも、まあそっか基本的に歌集は自費出版が多いわけ
で、それって同人だよなーと思うと、あ、先週入稿したっていってた本が
ちゃんともうこのイベントに間に合ってるわすごい、みたいなこともありか、
と思ってみたりだった。


いくつか、いいなあと思った歌。


  君を待つ部室にきょうも死にきれぬ螢光灯がまたたいている (p14)

青春短歌という感じ。回想にせよなんにせよ青春の頃を歌うとき、
どうしようもなく甘い自己陶酔が滲むものだと思う。「死にきれぬ螢光灯」
という表現がいい。あ~~~ってなります。


  遠くから来しともし火をてのひらは囲みて終わらせ方を知らない (p31)

この歌は一連の中、高校の卒業式のあとの歌なので、青春の終わらせ方と
いうようなことかなと想像する。火をてのひらで囲むイメージが好き。
終わらせなくてもいいというか、終わらせ方はわかんないんじゃないかなと
思うようになってる私のお年頃。


  急に髪切ってどうするつもりでもない君が「髪、切ったよ」と言う (p50)

この~甘酸っぱい~若者たちよ、という感じ。どうしたんだよ何なんだよ
どうでもないことだよ、けど、こう歌になっちゃう感じ、わかる気がする。
君も僕もどうしようもなく、若者じゃなくてもこういう瞬間っていいですねえ。


  てのひらに溢れて英字ビスケット Kから順に殺されました (p106)

英字ビスケットは今もあるものだけど、なんとなくノスタルジック。私が
思うにKといったら漱石の『こころ』のKだよね、ってことで、なんか、わかる、
と、勝手に思ってしまった歌。英字ビスケット食べたくなる。


  そこにある梨とガラスと人の影 それらがみんないとしい一日 (p151)

  指そえて黄いろいボタンを縫いつけるだれのためでもなく夜のため (p159畢)

タイトルにしてる歌。と終りの歌。
すんなりと静かな感じ、やさしさがあって素直にいいなと思えた歌。静かで
少し寂しくて、でも悲しいとかではないひんやりとした感触があっていい。

青春かよーという感じはしんくわっぽくも感じたりしつつ、すいすい結構
面白く読みました。やっぱり普遍的なようであっても、でもやっぱり一人
一人の歌なんだなと思う。私には読み取れないことが大いにあって、でも
心地よく読み終えた感じはあって、よかった。

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『富士見』(結城文/飯塚書店)


『富士見』(結城文/飯塚書店)


2017年11月刊。第八歌集。

短歌の器、というものを思う。この歌集も基本的には作者の等身大に近い
日常の暮らしが歌われているのだと思う。
ちょっと説明的にすぎないかなあと思ったりもするけれども、こうして
歌集として読んでいくと、やっぱり小さなことの、ありふれたことの、
ひとつひとつが奇跡の瞬間と思ったりする。
生きてる中で見出したささやかな大切な瞬間が完成することができるのが
短歌という器の、様々なポテンシャルのひとつの在り方であるのだろうな。


いくつか、惹かれた歌。


  もう空を見ようとしない母とをり花首深く垂るるガーベラ (p14)

老いや死と共にある中の一首。これは、老いてあまり元気もなくなった母に、
いい天気だよ晴れて気持ちいいね、みたいなことを話しかけたのではないか。
でも、もう、空を見ようとしないんだな。その光景がとてもよく見える感じ
と、しおれかけてゆくガーベラが首を垂れている様という重ね合わせが
よく伝わってくる一首だと思った。


  はろばろと北よりわたり来し鳥の数を増やしつつ雪吊りの庭 (p37)

「六義園」というタイトルのある一連。ぐぐってみたら東京、駒込にある
公園なんですね。そこの、冬がやってくる頃のことか。「鳥の数を増やし
つつ」という表現になんかとても惹かれてしまった。端的な描写なのだと
思う。「雪吊り」というのもいい感じなのかなあ。わかんないけど私は
とても完成されたバランスに思った。


  お祭りに特価販売のペット・ボトル青蛙ひとつ貼りつきてをり (p53)

これも小さな発見を丁寧に描写した歌だと思う。あ、蛙がペット・ボトルに
くっついてる、と、作者が目を止めたその情景、心の動きがとてもくっきり
伝わってくる。そっかあ蛙がそんなところにいたんだねと、ふふって思った。


  わたくしの今日をそこにおく赤あかと夕日の海に向きゐるベンチ (p57)

  ゆるやかに飛行機雲は崩れゆきわれは以前と違ふ道ゆく (p99)

  散るものの散りつくしたるわが窓に明日ととのふる闇の寄りくる (p127)

夕日の中に。飛行機雲に。窓に。なんでもないものの中にふと違う何かを
感じ取り表現してる歌だと思う。「わたくしの今日をそこにおく」、
「以前と違ふ道ゆく」、「明日ととのふる闇」という表現がいいなあと
思って目にとまった。


  わが街にも英会話学校とパチンコ店駅前にありて明るく灯す (p152)

あるよねー。駅前に、パチンコ店。英会話教室。その光景、あるあると思い、
でもそれってあんまりうつくしい風景ではないのだと思うのだけれども、
そこを、ともあれ明かりである、としたのは強いなと思った。


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