『亀さんゐない』(池田はるみ/短歌研究社)
第七歌集。2020年9月刊。2015年から2020年の間の作品。
やわらかい言葉で綴られる穏やかな世界。と思うけれど、読むごとに深く厳しい視線の芯があるのもしっかり感じられる。
70代を迎えられたんだな。お孫さんがまた増えたのだな。なんて、とても親しく感じながら読みました。ほんとは別にお隣さんでもなし、知らないんだけれども、読んでいるととても親しい隣人のように思わせてくれる歌集です。
ひとはくっきりとひとり。
そんな風に思いました。さびしいだろう。さびしくはないだろう。自分が生きていること、まだしばらくは多分生きていくだろうということを思いながら読みました。読んでるだけで豊かな気持ちになれた、と、錯覚? でも、そう思えてよかった。
いくつか、好きな歌。
いまわれは何をしてゐるのだらう電話・パソコン・テレビのなにを (p11)
ちょうどうちのテレビを買い替えたばかりで、ああ~そう、と共感が深かったので。買ってきて電源入れたらおわりじゃなくて、何らかの設定を求められて、なんかとりあえず「はい」決定、とかしたりして。なんだろ……って思って。これからますますわからなくなるのかなあ。もっとするとブラックボックス化して、電源入れるだけでOKになるのか。それはそれでこわいのかな。わからない……。
足あとがつくほど降つて 足跡を消すほど降つて まだ雪止まぬ (p18)
すんなりとした一首で、雪が降ってきて積もってきてそしてもっと降って、という時間が見えます。ひらがなと漢字の違いのバランスで後半の方が硬そうに感じられるの、一晩たって一度凍ったのかなとか想像できる。さりげなく、けれど的確に伝わる、こういうのすっごく上手い歌といえるのではと思いました。
亀さんは大くすのきの下が好き ゆつくりゆつくり来たりしものを (p36)
亀さんはさびしくないよというてゐた くすのきの影ふかぶか差して (p37)
甲羅干すカメのあつまるくぢら池 柵にもたれてわれは見てをり (p38)
白昼にはたらく蟻は音たてず ゆつくり時はすぎゆきにけり (p44)
「亀さんゐない(平成二十八年夏)の一連から。この亀さんは、手押し車を押してゆっくりあるく高齢の方、とわかるのだけれど、どことなく絵本を読んでいくような、生き物の亀の擬人化のような景色を思い浮かべる風情があって、とても味わいある好きな世界です。途中、これはホントに生き物のカメが甲羅干していたり。蟻を見ていたり。作者の描いてくる世界が日常と幻想のあわいみたいなふんわり感があり。けれど、老いとか、社会批判とか家族を思うとか、いろいろに広がっていて、面白かった。
すぐそこにくる怖いこと世界中に「壁」を作りていがみあふこと (p51)
「年取つてひとり」はみんなさうだよとうしろ姿のいふがごとしも (p54)
老若の壁をひつそり耐へながら亀さんいつしか見えなくなりぬ (p54)
亀さんのこゑたうとう聞かず そよ風のやうな時間を見せてくれしが (p62)
その後にも亀さんがゐた姿が描かれています。「壁」は、トランプ大統領になった時のことでしょう。壁をつくる、のは、その後全部実現されたわけじゃなかった、かな。けど、世界の分断は進み、ということを思います。そしてコロナ禍で世界の分断、国の区切りはもっとあらわになったな、と思ったり。
亀さんの姿に年を取ってゆく自分、を、作者も読者の私も重ねます。社会のスピード、あわただしさの中でひとり歩くゆっくりさが。邪魔にされるかもという怯え、でも一人一人の歩む速さはちがっていて当然だよねと思う。
あれ、亀さんの声をきかない、って、話したこともないのかな、と思う。あとがきによると、ただ町で時折みかけただけの人、とのことで。そういうすれ違うだけの小さな縁から、こういう歌たちがうまれているのってすごいなと改めて思いました。
ひとの世にひとりでママが育ててる女の子ゐて歌会にくる (p96)
「子ども」という一連で、最初はパンダの赤ちゃん、シャンシャンが生まれた、可愛いね、という始まりから、上記の一首があり。パンダの赤ちゃんに浮き立つニュースのことを思い、そこに費やされる人、金があり。それはそれで、よしとしても。赤ちゃんパンダ、可愛いものね。
でも一方で、子育てをする人の世のやるせなく世知辛く大変すぎる、時に惨いニュースのあまたあることを思い。一連、やわらかくやさしく歌われているのだけれども、この一首、本当に切実に鋭く深く刺さってきて、今また見ても目の奥が熱くなって泣きそうになって困るのでした。泣かないけど。泣くほどわたしはわかってないと思うけど。
七十の新婚だつた岡井さんを知らんふりして見てゐしわれら (p110)
七十で新婚だったのかあ。そういう時に何かでご一緒してて、ちょっとうふふと思いつつみんな大人なので、知らんぷりしてる、という情景でしょうか。作者が七〇になって、思い出した、という事でしょう。そういういろんな情景教えて欲しい。
三月は七十代の一年生さつそくに傘置き忘れたり (p117)
「三月生まれ」という一連。お誕生日が三月にあるのですね。傘を忘れちゃった、という事がユーモアで描かれていて、でも多分これまでにだって誰にだってそういうことはあると思う。「七十代の一年生」というちょっとした言い訳でふふって思う感じが、いいなあと思います。
「まだやのに きふにあつうて満開になつてしもてん」はにかむ桜 (p118)
桜のことばを代弁している歌。関西の言葉でアテレコしてるのが面白くて、作者の内心の言葉はこういう風な言い方になるんだなあと思いました。はにかむ桜に、あらあらいいじゃない、きれいよ、ってさらに話しかけているんじゃないかしら、と、読んで私の中で作者の会話を想像しました。
ながあめを連雨と言へばうつくしく草叢のなか水ひかりをり (p147)
*ルビ「連雨 れんう」 この歌がある一連、葬儀の場のようです。長い付き合いのある方の最期。小さな子もいるちょっとした賑わいもある場の空気が伝わります。そしてこの歌のように、美しい言葉で言える、と、心を自分で少しでも哀しみの暗さからひかりのほうへ向けているのだと思います。一首で読んでもすらりときれいな姿の一首で、ことばの、歌の良さを感じました。
からだからある日ことりを音がせりさびしさの芯がぬけてしまうた (p149)
これは芯、というか、栓、のように読んだのだけど。さびしさをせき止めていた器に栓があってそれがおちて、さびしさが溢れてしまう、というような。夫の手術がありひとりの不安寂しさの日々のようで。でも「芯」だから。寂しいとかの気持ちの張り詰める塞がれる感じから、ふ、と力が抜けた、みたいな感じなのかな。うまく読み切れないのだけど、「ぬけてしまうた」という結句の印象にもひきこまれて、あ、なんかこういう実感を覚える時がくるかもしれない、と、わからないけど実感がくるような気がして目がとまる歌でした。
総武線東中野の駅に降りちよつと探しぬ岡井隆を (p162)
東中野は未来の発行所がある場所。岡井さん始め、編集委員の方が集まって編集会したりします。多分だけどその編集会に作者が行くとき、岡井さんいるんじゃないかな、と、ちょっと探す感じ、とてもわかる。一連読んでると、あー岡井さんがもう来なくなった時期で編集会でみんなが岡井さんお元気かしらとか話してたあの頃だなあと、わかります。とても、わかる、と思えていい、けど、今はまだ読んでとても、寂しいです。
口中にするするすするよろこびをもたらすうどん うどんは偉い (p173)
お孫さん? 一歳前くらいの子どもの離乳食に付き合ってる場かなと思います。が、それでなくてもいい。うどん、美味しい。うどんを食べるよろこび。「するするすする」の表現のあかるさ。「うどんは偉い」という断言もいい。同意です。池田さんのお歌でごはんが出てくると、すごいご馳走じゃなくても美味しそうでいいな~食べたいな~と思います。うどん食べたいな。
華やかなコロナと思ふかろがろと人から人へうつつてゆけば (p178)
歌集の終りの方、は、今年の事で。「華やかな」と表現しているのが凄味があると思いました。社会の混乱と不安は非日常感がすごくて、それはなんだか祭りの非日常にも通じるかも、と、思う。勿論違うのだけれど。こう表現してる一首をちゃんと歌集に入れていていいなあと思います。
すれちがふ人はやや頭を下げくれぬ折れ合ひながら生きてぞゆかむ (p188)
*ルビ「頭 づ」 二〇二〇年、五月、で、この歌集のラスト。みんなマスクをしていて。大声のお喋りなんかもよくない、とみんなわかってきていて。すれ違う時、気軽に挨拶やお喋りをしない、ちょっと会釈をする感じ、だと思う。お互いに。どうなるんだろう。みんな死ぬのかな。なんて私も思ったことがあり、でも大丈夫だろうって思ったり、でもわからないと思ったり。今もまだ先は見えないですね。「折れ合いながら」おりあう、と同じか。互いに譲り合い、解決していく。「生きてぞゆかむ」という言葉が大袈裟でなく切実であることをわかっています。今、の心が率直に記されていて。こういう歌が、あんなころがあったね、大変だった、と、穏やかに振り返る時がきますように。
お相撲の歌もまた社会詠であるなあと読みました。あとがきもしっとりした思いで読みました。あとがきの最後に岡井隆の訃報が届いたとありました。リアルタイムを共有した思いで読んだ一冊でした。ありがとうございました。
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