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『白髪屋敷の雨』 (河野泰子/短歌研究社)

『白髪屋敷の雨』 (河野泰子/短歌研究社)


 2018年3月10日刊。第三歌集。

 河野泰子さんのお歌をじっくり読ませていただいたのは合同歌集の『間奏曲』時で、以来未来紙上で拝読している。私の勝手な一方的な思い込みなのだけれども、河野さんの状況と自分の状況とが似ていると思う所があって、親近感、深い共感を持って歌を読むことが多い。自分が似てるなんておこがましくて申し訳ないのだけれども、なんとなく、勝手に思っちゃってます。とはいえ勿論作者のことは歌から読み取れることしかわからないし、知らないことばかりだし全然違うのだとも思う。けれどもこうしてまたじっくり一冊拝読して、ますます敬意を抱いた。

 東日本大震災の歌で始まる。2011年ごろからということで、歌集の終りの方には熊本地震のことに触れていると思う歌がある。2016年の4月か。5年間ほどの期間、徳島へ移られての日々が歌われている。
 歌としての姿がきれいで、歌っていることとの距離感、バランスがとてもいい。好きな感触。鬱々とした思いも、悲しみも、軽やかな諦めも、自在に歌になっているみたいだ。読みながら何度も、私はこういう歌が好きなんだなあと思った。


いくつか、好きな歌にそって。

  生といふものの健気さ紛れいりしカナブン幾度も硝子を打ちて (p22)

 ほぼ編年順に編まれた歌集とのことで、流れにそって読みました。前にお父様の状態がよくないということがあり、命や生死について思うこと多い日々だったのだろうと思う。この歌はカナブンが飛んでガラスにぶつかって、という、状況がわかって、姿、音までよく聞こえる見える。そこで思うのが「生といふものの健気さ」という切なさ。愛しさ。紛れ込んできたカナブンて、私は怖くていやなものなんだけれども、この歌の心情はとてもわかると思える。「健気」と表現することができるのにうたれた。


  斎場の石をたたける俄雨ほほづゑつきて見てをりしばし (p42)

 「父の死」の一連。近しい肉親の死にあうと、なんだか混乱し、あわただしくあれこれが進み、その中に淡々と黙々と流されていく。わざわざ枕元でわっと泣き伏したりはしない、というのが私の実感です。この歌の、しばしの俄雨があって、ふっとその流れの中のエアポケットみたいなゆるみを思って、ひかれた。いい雨だな。


  降りつづく雨のいちにち戸袋の蜂の巣に蜂はひつそりとゐて (p58)

 季節は秋の頃の歌のようで、秋の長雨のころだろうか。戸袋に蜂の巣があることをわかっていて、でも今は何もしていなくて、蜂も自分もひっそりと雨の中にふりこめられている静けさを思う。本当は蜂の巣は排除しなくてはというものだけれども、今等しく同じ家をわけあっているような感覚がして、好きだった。


  なぐり書きなれど書き継ぐ日記はもゆふべ殺しし蜘蛛の子のことも (p64)

 日記を書き続けていることは惰性のような所もあるのだろう。けれど、大事なことなのだと思う。蜘蛛の子を殺したということの、ひっかかり。そのことについて何を言うでもないのだけれども、日記に書いたこと。こうして歌になったこと。この微妙さがたまらなくて、いい。
 私も日記をざっくり書き続けている。素敵カワイイ手帳術みたいなことはできなくて、本当にただの殴り書きメモ。だけれども、なんでもない毎日、茫洋とした自分の一日一日を、なんとなくでもここに繋ぎとめているような気がする。と、自分自身のことをいろいろ思ってしまう歌たちなんだよなあ。


  ひとことで反転しうる間柄 ぐさりぐさりと霜柱踏んで (p72)

 それはどういう間柄なの。友達とか、血縁ではない家族ってことかなあというのは深読みすぎるか。関係というのは案外にもろかったりする。反転させるような「ひとこと」は言わずに、霜柱に八つ当たりして飲み込んだのだろうなと思う。「ぐさりぐさり」という感じ、すごく、わかる気がする。霜柱には悪いけど、寒い朝に踏み壊していくことができてよかった。


  一斉に旬がきたればたまはりて草食系の日々の食卓 (p110)

 これは春。で、私の個人的な思いなんだけれども、本当に、春の緑の野菜が、ことに豆が、まあもちろん旬というのはそういうものなんだけれども、義理家からも実家からも一斉に豆が届いて、緑ばかりを食べる時期がくる。有難く美味しいことなんだけれども、ほんとうに。「草食系の日々の食卓」に、春の陽や鮮やかな緑の豆の並ぶ食卓が目に浮かんで、ああ~そうだな~~~ってすごくわかると思った歌。「たまはりて」という思いが本当は大事ですね。今度の春にはその思いを私も持とう。


  濡れながら切りしひともとゆつさりと机上に置けばむらさきのあめ (p135)

 これは紫陽花の歌。紫陽花の花の大きさやつややかさがとても鮮やかで、重みや手触り、その時の空気感がとっても伝わってきて綺麗。


  蔦かづらからまる茶房におそき昼を姑と食みをり友だちみたいに (p149)

 姑さんと仲がよいようで、一緒に出掛けたりもしていて、「友だちみたいに」いる。こういうのは真似できないなあと読むのだけれども、でも、ただ無邪気に仲良しってわけでもないような淡い影ももっている感触が、「蔦かづらからまる茶房」にあると思うのは私の勝手な思い込みかもしれない。蔦のからむ素敵な喫茶店、って見るべきか。でもなんかどうしても、私の個人的感覚として、は、「友だちみたいに」は、単純に文字通りってわけではないでしょう、って、思う。まー、難しいよね。


  人はみな何をなさむと生を享く、な~んて。椿の厚葉が光る (p164)

 これはもう「な~んて。」に参りました。上句の仰々しさを軽やかにいなす感じがすごい素敵。思い悩み憂鬱なことはたぶんいっぱいあるしこれからもあるしもっと大変なことあるかもしれないけど、「な~んて。」って思っていこうって、思いました。


  花桃が咲き出してるよゆるゆると歩いてゆかうゆけるとこまで (p183)

 歌集の終りの一首。やさしくすべてを肯定するような、春の歌。自分のペースで自分の脚でゆけるとこまで歩いていこうって、思いました。
 上手さがとても自然でやさしくて、それに作者の視線や物事の捉え方や表現が絶妙で、こういう風になれたらなあと、憧れます。読んでよかった。

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