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『短歌こぼれ話』 (大島史洋/ながらみ書房)

 『短歌こぼれ話』 (大島史洋/ながらみ書房)


 2017年10月15日刊。
 「短歌往来」の2008年1月号から2016年12月号まで9年間の連載の「落書帖」から95話を選んで収めたものだそうです。


 雑誌連載ってことで一つ一つ、本だと見開き2ページ余りの短い読み物。大島さんの声が聞こえてくるような文章で軽妙っていうのか、切れ味がお見事で、リズムよく読める。いろんな知らないこと、大島さんが読んだこととか思い出話を教えてくれるという感じですごく面白かった。

 大島さん、ほんっといろんな本読んでるんだなあ。古い本も今の本も。そして、お、これ面白いってことを書いてくれてるから、面白いの間違いない。そして、お、これなんだ? と思ったことを調べてみた、って書いてくれてるから、へ~って思う事いっぱい。よくこんなに知ってるなあとか、知らないからって調べてみるもんなんだなあとか、思考の断片を読ませてくれるから、すごい一緒になってその本を読んだり調べてみたりする気持ちになる。気持ちになるだけで、大島さんがすべて教えてくれてるわけですが。博識とか教養とか、大島さんならではの交友とか長い時を持ってる思い出とか、すごいよねえ。

 子規とか茂吉とか、土屋文明、近藤芳美という有名どころのお話。もっとマイナーというか、すみません私が全然知らないだけでほんとは有名なのかもしれない歌人のエピソードいっぱい。こんなに毎月よくネタがあるなあって感動する。

 若い頃の思い出話で、近藤さんちから原稿諸々預かって帰る途中、電車に忘れたのを、近藤夫人からの電話で知らされた話とか。若き大島史洋さん、どんなに可愛かったでしょうね、と勝手な想像をしてふふってなったりした。しかし、想像するだに恐ろしいわ~~未来のあの原稿歌稿を置き忘れるとか。今、私も未来の割付のお手伝いしてるので。人の原稿の重みとか、思うと、いや~~~っ……こわい。

 大島さんの文章は本当に喋ってる感じがすごくする。私は未来のあれこれの選考会でテープ起こしをさせてもらっていて、その時にも思うのだけど、ちゃんと文章で喋れるんだよねえ。すごい。この本読みながらも、大島さんの声や喋る感じがすごく聞こえる気がして楽しかった。なんでしょうね。文章のリズム感みたいなの鍛えまくってて洗練されまくってるんだろうなあ。多分大島さんを知らなくてもこれは軽やかに読める文だろうなと思う。内容も、知らない人にでも優しくて、教えてくれてるけど全然エラソウじゃなくて、楽しそうにしてる感じがわかるので、読みやすい。
 これはぱらぱらひとつひとつ、ゆっくりと読みました。表紙のフクロウも可愛くてよくって、すごくいい本だった。


 てことで、今月個人的に短歌関係読書強化月間達成しました。……本をためるのはやめようと、反省。

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映画 「サスペリア」

*ネタバレ、結末まで触れています。

 映画 「サスペリア」

2018年製作、ルカ・グァダニーノ監督。

 1977年の「サスペリア」はGYAOの配信で昨日一応見ました。ありがたい~。
 なんかすごい怖そうな感じで怖いの嫌なんだけど、見てみると、あんまり嫌な怖いものではなかった。アメリカからドイツへ、バレエを学ぶためにやってきたスージー。だがそこでは恐ろしい殺人や不可解な失踪が相次いでいた。
 てな感じで、実は魔女の館なのか、とか。三部作なのー? ってウィキを見て知り、でも多分三部作見て理解しようとかまでは、思わないかな、って所で。赤い館とかいかにも絵具の血糊とか、クラシカルなお嬢さんスタイルとか、インテリアとか、画面がすごいスタイリッシュって感じの映画だった。ホラーめいた所はあるけれども、怖くて見られないってことはなく。

 さてリメイク版って、どうなんだろう。もっと怖くなっているのかなと怯えつつ。予告や、見た人々の賛否両論とかオリジナルからの大胆なアレンジだとかがどういうものなのか気になって見ておくことにした。ティルダ様が出てるし。監督、「君の名前で僕を呼んで」の人じゃない~。まあ全然違うだろうけどやっぱ見ようと思った。


 舞台は1977年、ベルリン。スージーがアメリカからダンスのためにやってきた、というのはオリジナルと同じかな。バレエじゃなくて舞踏団。かっこいいお屋敷って感じではなくて薄暗く寒々とした街にある舞踏団のビル。寮に空き部屋ができたわ、と、スージーはそこで暮らし始める。
 正式なレッスンを受けたこともないらしいスージーだったが、頼み込んでのオーディションで見事入団を勝ち取った。そして、次の公演の主役を踊ることにもなる。
 プログラムを作ったマダム・ブランにもダンスの解釈で議論するほどのスージー。彼女の力強い踊りが死を招く。

 って、一応、ストーリーは、ある、あるのかな。あるんだけど。スージーは実は魔女だったのだーとか。
 不穏な気配。理屈はわからないながらもダンスによって死や生命が動く感じ。少女たちは操られているのか。舞踏団の大人たちは魔女を崇拝して守ろうとしている感じ。彼女たちも魔女なのか。
 精神の不安を訴えていた少女のかかりつけ精神医は、舞踏団に秘密があるだろうと探り始める。ラジオからはハイジャック事件のニュースが流れてくる。社会そのものの不安。現代の魔女狩り。少女たちは生贄なのか?

 オリジナルのようにスタイリッシュでステキ!って感じはなくて、街も部屋も寒々しく、まがまがしい気配や、よくわからない過去や、不気味な死体が短いカットで現れる。けれど、意味はわかんない……。これも三部作構想みたいなのがあるらしく、また作られるのかなあ? その場合前日譚にしたいとか監督には考えがあるみたい。
 けど、けどなー。何なんだろう。
 見終わってから、なんもわかったとは言えない……と途方にくれる感じ。場面のインパクトはすっごいある。特に赤い紐だけみたいな衣装、衣装っていえないような衣装で踊るプログラムとかさ。あれって、暗黒舞踏って感じ? この映画そのものが暗黒舞踏って感じ。暗黒舞踏についてとかよく知らないけれど。
 肉体のエネルギーみたいなのはすごくある。と、思った。舞踏団が舞台っていう迫力。

 ティルダ・スウィントンがマダム・ブランで、存在感ある。うつくしい、って単純には言えない、ティルダ様の人間離れした感じは相変わらずさすがすぎる。
 特殊メイクで、じつは精神科医も演じていたと。そして地下で肉体滅びそうなマルコスも特殊メイクのティルダ様だそうだ。マジかー。一人三役。それぞれ対立するような人物を、一人で演じるのって、それぞれがなんかメタというか超自我とかなんか、読み解くヒントなんでしょうか。わからない……。

 終盤、クライマックスとしては、地下での血祭。スージーこそが実は魔女で、舞踏団を支配しにきた、って感じ、かなあ。支配というか、なんだろう。新しい家族?
 
 魔女は記憶を消せるらしく、殺さなかった女の子たちは昨夜のことを覚えていない。精神科医を殺すことはせず、関わった女の記憶を消してしまう
 スージーが新たな魔女として、舞踏団で女の子たちの生命力というか精気みたいなのを吸って生きるみたいな感じなのかなあ。わからないけど。

 不安、不安定、魔女。恐怖に襲われるのではなく、彼女自身が恐怖をつかさどるものになるって感じ。強い女、なのか。どうなんだろうなあ。
 ともあれ、気になっていたのを見ることができて満足。楽しんだ。怖かったのは、そこそこかな。嫌な怖さではなかった。大丈夫だったよかった。不思議だったなあ。

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『めくるめく短歌たち』 (錦見映理子/書肆侃侃房)

 『めくるめく短歌たち』 (錦見映理子/書肆侃侃房)


 2018年12月21日刊。
 NHK短歌に連載していた「えりこ日記」と、他と、穂村弘との特別対談つき。

 雑誌連載の時にちょこっと立ち読み(ごめんなさい)したことはあった。短いエッセイ集でとっても読みやすくて、紹介されている短歌や歌人友達とか、恋の話もみんな優しく思えました。
 好きな短歌とか好きな友達とか、好きな人、好きな事、好きだったあれこれ、作者の大事なことを、素敵なお茶とか飲みながらお喋りして教えてくれているみたいな読み物だと思う。

 昨日未来の新年会がありまして。楽しかったけど疲れたってのもあって、ベッドに籠って読んじゃった。そんな無気力ゴロゴロ状態な私にも読んで優しくされた気がする、って思わせてくれて、いい本だな~。

 基本的には短歌にまつわる思い出話。歌人の友達。こんなに素敵な友達とのたくさんの思い出がとってもいいなあ羨ましいなあと思う。それは作者が出かけていったり会いにいったり、率直に話をしたりしていくからこその瞬間瞬間で、そういう出来事をおすそ分けみたいに見せてもらえた気持ちになる。そして、短歌っていいなあ。短歌やってるっていいなあと思った。
 自分も短歌やってるじゃん、と思うのだった。昨日もいっぱい歌人にあって、おお~なんか感動、という感じがあったりした。けど、あれ、なんか、自分、全然ちゃんとできてないと反省したり。

 勿論ね、とてもうまく素敵に読ませるように描いて見せてくれているのだ。誠実な筆致に惹かれました。穂村さんとの対談も面白かった。小説書くのと短歌とで苦しかったりもしたのかあと知って、でもちゃんとそれがすごくいいものとして世界に届けられて素晴らしいって思う。
 ほんの少しですが私も知っている方のエピソードもあって、読みながらすごく声が聞こえてくる感じで面白かった。

 紹介されてる歌もたくさん、どれも魅力的。この日記に引用はしない。エッセイと一緒に読んでますます素敵だから。それぞれに歌集を読んだりして好きになるとのはまたちょっと違う、丸ごとを読めて、よかったです。

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『小川佳世子歌集』 (小川佳世子/現代短歌文庫 砂子屋書房)

 『小川佳世子歌集』 (小川佳世子/現代短歌文庫 砂子屋書房)


 2018年11月21日刊。歌集『ゆきふる』(全篇)と『水が見ていた』(抄)自選と歌論、エッセイと書評などの解説が入っている。

 京都の方で、能の研究者で、という背景もありつつ、難しそうだったりエラソウだったりすることのない歌たちで、すいすいと引き込まれて読むことができる。『ゆきふる』は読んでいたが、『水が見ていた』は未読なので、今回こういうまとめによって知ることができてありがたいと思う。

 歌論、エッセイも丁寧で、何より書いている対象への熱意がしっかりあることがよくわかって面白かった。凄いなあ。評論にもこういう熱をこめて、でもクールにこめて、書き上げることができるんですねと思う。


いくつか好きな歌。というかあれもこれもって思っちゃって書ききれないのでがんばって減らしてみた。


  病棟の廊下にひとすじさすひかりたぶんなれてはいけないところ (p12)

 最初の歌。『ゆきふる』には病の中にある歌がいくつもある。病院や検査や。病院に親しみを、持ってはいけない、という気持ち。少し悲しくて、でも強い意志だと思う。病棟の廊下にもちゃんとひとすじ光がある。それを見つめる作者の視線の確かさを思う。清らかさを感じる一首で始まっていいなと思いました。


  ゆきふるという名前持つ男の子わたしの奥のお座敷にいる (p15)

 歌集タイトルにもなった一首ですね。弟なのかな? はっきりとはわかりません。が。自分の中にそんな名前を持つ男の子がいるという、優しさ。お座敷、という言葉もちょっと古風でしっとりした気配を感じる。心の中に雪が降ってくるみたいな気持ちになってすごく惹かれる歌。好き。


  屈託があるのではなく屈託がわたくしであるだから今いる (p30)

 屈託があるとかないとかじゃなくて、わたしそのものが屈託なの。というちょっとユーモアにも思える言い方。けれどそこまで言わなくちゃいられない苦しさ。しかし屈託って何、と思って改めて辞書ひくと、心配したりくよくよしたりすること、らしい。くよくよしまくってもそれが私、というの、それでもだから今も生きてるの、という感じか。「今いる」と言い切る結句が魅力です。


  ブロッコリーゆでつつ人を待つことなく誰かにゆでてもらった緑 (p39)

 上句と下句で違ってきているような不思議な一首。ブロッコリーを茹でながら人を待つでもない、で、誰かにゆでてもらった緑。ブロッコリーをゆでているのは私では? けど、誰かにゆでてもらった緑、ってブロッコリーのことなのでは? 上句と下句で時が違っているのかな。その飛躍がちょっとわからない。わからないんだけれども、すうっと変化というかずれというかがすらりと一首になっているのが気になる魅力に思えた。ゆでたブロッコリーの鮮やかな緑がきいてると思う。


  勝ちに行く帰るところがなくっても内臓写真のような夕焼け (p62)

 「内臓写真のような」という比喩が凄くて惹かれた。夕焼けを見てそういう比喩をするって。内臓写真なんてそんなに見慣れて連想するものじゃないと思うけれども、作者にとっては喩となりうるのだ、というのが重く、すごい。帰る所がなくても「勝ちに行く」という上句の強さもすごい。夕焼けと、長く伸びる影と、戦う姿とが見えるような一首で凄い。


  「お互いのファンでいましょうこれからも」と言い別れたなんか最低 (p81)

 これと以下は『水は見ていた』(抄)から。社交辞令のようなファンでいましょう、からの内心の「なんか最低」という言い方がすごくいい。あ~最低だったんだな~と思う。このきっぱりとした感じ、こうして切り替えていくしかないなという感じ、いいなと思った。


  女ではまして春ではなき五月さらに夏でもなしと思いぬ (p83)

 五月は私の誕生日がある月。小川さんもそうだった気がする。五月。そうか、春ではなく、夏でもなく、という時なのか。で、女ではない、と。なにか自分を問い直すようなことがあったのかなと想像する。「女では」で始めなくてはならないような何かが。それが何かはともかく、なんかこう違う、という感じはわかる気がする。わかってないのだろうけど、わかる気がする、と思った歌。それでも五月はいい季節だよ。


  雨音を聞く仕事ならしてもいい何処か遠くの緑の窓で (p90)

 私もそんな仕事ならしてもいいな。でも本当はどんな仕事もしたくないんだ。どこか遠くの緑の窓で、雨音を聞くだけでいさせてほしいと思う。やわらかく爽やかさのある歌だけれども切なさを多いに含んでいると思う。

 歌のリズムのやわらかさ、綺麗な響きの中に心情がちゃんと表現されていて、短歌、うつくしいなあと実感できる。現代短歌文庫という形で手にしやすくなって、改めて読めてとてもよかったです。
いくつかあった阪神タイガースの歌にもにっこりしちゃった。これからもお歌、楽しみに拝読します。


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『迂回路』 (桜木由香/明眸社)

 『迂回路』 (桜木由香/明眸社)


2018年12月15日刊。
2011年から2018年までの作品の中から387首を選んだとのこと。

 表紙の青いオブジェは何だろうと思ったら、あとがきを読んでわかった。聖書を読む講座の仲間の方が製作したものだそうで。なるほど言われてみれば群舞の抽象のように見える。
 信仰を持ち、仲間を得ている日々。聖書の世界や、読んでいる本や、歴史への思いなども歌われていて、私にはちょっと難しい歌集だった。自分が見ているものとはかなり違う世界だなあと思う。なので、作者が描いている一つ一つを教わるように感じて不思議で面白かった。
 そればかりではなくて、共感できたり、景色がよく見える歌もあり、多彩な色を感じる歌集でした。


 いくつか、好きな歌。


  人間といふ誤植をゆるす地上にて正月なればあはれ華やぐ (p79 ルビ「人間 ひと」)

 人間が地上の誤植、という把握にぐっときました。お正月の華やぎの中でそう思うってすごい。いつか校正されて訂正されるのだろうか。どんな風に? 華やかなのにこわい歌。


  電線にならぶ雀はつゆぞらの心拍数を数へゐるらし (p105)

 雀がちゅんちゅんいってるのかなと思う。曇天の中、その囀りが空の心拍数を数えるようだ、ということでいいのかな。可愛い情景だけど「心拍数」という言葉がちょっとこわい感じ。好き。


  いつの日か遺跡とならんスカイツリー船べりたたく川なみの音 (p107)

 まだまだ真新しくそびえたつスカイツリーをいつか遺跡になる、と、すでに廃墟と二重うつしに見ている。江戸、と見ている一連の中で、過去と未来とを今、想念しているはるばるとした時間の感覚が面白かった。


  梅雨寒や本のにほひのしてありき我家はいまもここに在ります (p127)

 我家の匂いは本の匂いなんだなあというのがとてもいい。羨ましくなった。


  ゆふぐれのそらに鮮らしき富士のやまわが水準器たひらかとなる (p144)

 夕暮れの中に富士山がシルエットとなって見えているところだと思う。夕暮れというさみしさの中、あの綺麗な山の姿を見て、ふと、心やすらかになる、という情景だと思う。「わが水準器」という表現が素敵だなあと惹かれた。


  がうがうとわたしを轢いてゆくがいい春らんまんの夜の列車は (p167)

 夜桜の中を走っていく列車、と思った。「わたしを轢いてゆくがいい」というのは物騒で、でも春爛漫の中にいるとそういう気持ちになるのかもしれないと、わからないけれど納得する気もする。投げやりのようで、力強くもある歌で魅力的。春の中に消えてゆきたいという思いかなあ。消えてゆきたいというよりはバッと弾けてしまいたいような感じかな。惹かれる歌だった。

 もっと私がいろいろ知っててわかってたらいいのになあ。もっと読めるだろうに。少しずつでも見たり聞いたり勉強したりし続けていかねばと思った。


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『遠くの敵や硝子を』 (服部真里子/書肆侃侃房)

 『遠くの敵や硝子を』 (服部真里子/書肆侃侃房)


 2018年10月17日刊。第二歌集。
 2014年7月から2018年3月までに作った歌から291首集めたものとのこと。

 前の『行け広野へと』の時もすごいなあと思ったけれど、今作でもいっそう、凄い。強い。戦ってる、きっぱりと一人で立つという印象があった。
 言葉が強いんだよね。強いというか、えーと以前穂村さんが言ってたレートが高いという感じ。そういう言葉を使って負けてないのが凄い。
 さらっとご近所感覚で宇宙までいっちゃうような大滝和子さんの歌がすごくて好きなんですけど、服部さんの歌の言葉は、宇宙には行ってないと思うけど、ガッとはるか彼方の詩的な所を掴んできて自分の歌にしてる感がすごい。レートが高い言葉をレートが高いままで使って高みを見せてくれる。よくこんな言葉の組み合わせになるなとびっくりする。とてつもなくうつくしいと思うけれどきれいにパッケージしましたということがなくて、むき出し。
 むき出しという感じがする。「愛のむきだし」という映画があって、私は見てなくてなんとも言えないのだけれども、このタイトルのインパクトが強くて、以来時々、あ~むきだしだなあ、と思うことが自分の中であり、服部さんの歌もかなりむき出しなのでは。と、思った。
 全然説明できず自分の中だけでのひとりごとの感想を書いてしまってすまない。

 いいなと思う歌に付箋をつけつつ読むのですが、二度三度読んでいると、前はなんでこの歌に付箋したのか自分でわからないなって思う。別の歌に付箋をし、付箋だらけになり、つまり全部の歌がすごいなあと思って、んでまあ付箋を付けようとするとあれになったりこれになったり何でなんだろうって自分がわからなくなったりします。
 上手いとかすごいとかは言うまでもなくみんな知ってる。で、個人的好みしか書けないのですが、あんまちょっと好きでもないっていうのもけっこうある。そして結構意味はわからない。私が無知すぎだし、ポエジーの飛躍についていけてないのだろう。詩歌苦手だし……。そうではあるけど、圧倒されてなんか、うん、って思ったりです。レートの高さにやられるのか。

 あとがきに「私は勇気の人でありたい」とあり。嗚呼あなたの勇気が私には眩しすぎて、そうですね暴力を受けているように私の中で勝手に感じる。あなたの勇気はささやかではないと思うし、とてもすごい。第三、第四の歌集でもなんでも今後ももっとずっと沢山の服部真里子の歌を読みたいと思う。


 いくつか、今、好きな歌。


  わたくしが復讐と呼ぶきらめきが通り雨くぐり抜けて翡翠 (p6 ルビ「翡翠 かわせみ」)
  海鳴り そして死の日の近づいた君がふたたび出会う翡翠 (p15)

 「愛には自己愛しかない」という最初の一連のはじめとおわりの二首。翡翠は何の象徴なのだろう。復讐? 父が病み、死が近いという一連のようで、死の気配が非常に硬質に描かれている。壊れるとか憎悪とか、こういう風に描かれるものか、と、冷え冷えした一連でこわい。翡翠の色鮮やかさ、鋭さが額縁となっていてとても綺麗です。


  誰を呼んでもカラスアゲハが来てしまうようなあなたの声が聴きたい (p18)

 これはすんなり優しい歌だと受け取った。あなたの声は蝶を呼ぶ声。でもカラスアゲハ、真っ黒な大きな蝶。魂みたいなことかなあ。死神みたい。でも優しい歌だと受け取った。


  水仙と盗聴、わたしが傾くとわたしを巡るわずかなる水 (p44)

 これは発表当時なんだか議論を呼んでいたような。私は追いきれてなくてその辺の事はわからないのですが。「盗聴」という言葉の不穏さに引き付けられる。盗聴、スパイ?裏切り、きゃ~、と、自分の中で連想してもえる。傾いて私の中の水が動く、というのは、思想が傾いていくようでもあって、やっぱり裏切り?きゃ~ともえる。水仙という清らかなイメージの花の冷たさも好きです。


  冬の空すなわち無惨あなたが向こうの方で塩買っている (p45)

 これは「無惨」という言葉がとても強くてひきつけられる。「むざんやなあ甲の下のきりぎりす」というのは芭蕉の句か。横溝正史の『獄門島』のイメージがあって、私の中で「無惨」というとあれの感じ。こわい。と、その言葉に目がいくのだけど。一首の意味は、ちゃんとわからないのだけれど、これはやっぱ単純に塩を買い物してるわけじゃなくてキリスト教的モチーフなの、かな。冬空の無惨な中少し遠くにいるあなたの行為を見ている感じ。無惨って。無惨な中ってどうなんだろう。どうしようもなくとりかえしのつかないことみたいな感じがして困る。


  夜の雨 人の心を折るときは百合の花首ほど深く折る (p62)

 これが一番強く印象に残った歌でした。人の心を折ることをわかっていながら深く折っている強さと悲しさがすごい。百合の花首ほど、って、きれいな表現されてるけど。花が開ききって大きく重たく垂れたくらい、と思う。相当深く折る。そのくらいがっくり人の心を折るんだね。でもあくまでうつくしく。この歌読んで折られて泣いた……。


  図書館の窓の並びを眼にうつし私こそ街 人に会いに行く (p101)

 「私こそ街」という言いきりがこわいほど強くてすごい。図書館の窓、は、激しくはないけれど世界のあらゆる知の集積。で「街」、は、どうだろう。人の集まりとして? なんか、わからないけれど、こんな自覚持って会う人はどういう相手なのか。大変だなと思った。


  金雀枝の花見てすぐに気がふれる おめでとうっていつでも言える (p107 ルビ「金雀枝 えにしだ」)

 上句と下句のつながりはわからないのだけれども、「すぐに気がふれる」というただならぬ感じに惹かれる。黄色く明るい花。気がふれておめでとうって言うのって、何故。おめでとう、という言葉がこんなにも狂気のからっぽさに見える歌、すごいなあ。


  春よお前 頭にかすんだ空載せて大きな身体で悲しむお前 (p140)

 春、が自分の名前と思って犬がくる歌が前にあり、(春だねと言えば名前を呼ばれたと思った犬が近寄ってくる)なんとなくこの歌も大きな犬に呼びかけるようなイメージを持った。「春」という季節への呼びかけとも勿論読める。春霞の薄青い空。春の憂鬱。悲しみ。春だなあと思う。


  遠雷とひとが思想に死ねないということと海が暮れてゆくこと (p149)

 三つ並列されていて、それは並列するようなことなのかと思うけれどもこの歌を読むとなんだかそうだなという気になった。歌の力を思う。


  神を信じずましてあなたを信じずにいくらでも雪を殺せる右手 (p157)

 全体に何か喩となっていると思うんだけれども私にはわからない。わからないのだけれども、神を信じないの? あなたを信じないの? 雪を殺すの? と、すごく気になった一首。とても苦しい気がする。殺さなくていいものを殺すような。殺さなくてはいけないのか? わからないけれどすごく立ち止まった一首でした。


  地下鉄のホームに風を浴びながら遠くの敵や硝子を愛す (p163)

 歌集タイトルの一首。歌集のタイトルだけを知った時、「遠くの敵や硝子を」に続く言葉として私が思ったのは殺すとかぶっ壊す、とかだったのだけれども、愛するのですね。申し訳ないお恥ずかしい。あとがきによると家族が話していて知った言葉からとったとのことです。概念として遠くの敵を愛するのはたやすい、のか。あなたの敵を愛しなさい、みたいなことなのか。地下鉄のホームの風をあびるという日常の中で、具体的な誰かではない遠くの敵や、壊れやすい硝子を、愛する、赦すということを考えている感じかな。結局は自問自答のような気がする。自分を許せるか、ということのように、私は思ってしまう、のは、私はいつも自分のことしか考えてないからかなあ。だからこの歌が読めてないかも。「愛す」と言える作者の凛々しさを思います。

 読むたびに見方が変わるような気がします。いつかもっと読めるようになるかもしれないし無理かもしれない。きれいな歌集ですごくよかったです。

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 映画 「ミスター・ガラス」

*ネタバレしてます。


 映画 「ミスター・ガラス」


 かつて列車事故から一人だけ生き残った男、ダンは不死身であるという特性を持ち、悪人には触れたらわかる能力をもって密かに街の悪人を罰していた。
 いくつもの人格をもつケヴィンはまた生贄を誘拐監禁している。ケヴィンを見つけたダンが対決しようとしていた時、警官に取り囲まれ、二人とも拘束、精神病院に監禁される。
 そこには、かつてダンに、ヒーローには悪役が必要だ、と語った自称ミスター・ガラスも拘束されていた。
 自分がヒーローだと思い込む精神病理を研究しているという医師ステイプルは、三人に自分が超人的だというのは単なる思い込みだと気付かせようとする。その思い込みにはきっかけがあったのでは? 辛い経験からの逃避なのでは?
 逃走を図り、コミックブックのヒーロー対決のように、決着をつけようとするミスター・ガラス。自分たちは超人なのか。


 「アンブレイカブル」と「スプリット」と三部作のシャマラン監督のヒーローもの、ってことで。「スプリット」を見に行った時には、「アンブレイカブル」を見てなくて、最後にブルース・ウィリスが出てきて、何??? と思ったものでした。その後テレビでやってたのを見て、一応話は把握。で、「スプリット」の後に、実は三部作です! なんだってー!? というびっくりがあったのだった。
 「スプリット」はまあ単独で見ても最後以外は大丈夫だと思ったけれども、今作は、前二つを見ていないとよくわからないものだろうなあと私は思った。しかし「アンブレイカブル」は2000年公開なんですよね。19年を経ての三部作、息子は子役くんが育ったまんまなんだろうか。いや~そんな構想ある?ってまずびっくりした。

 で、今回は、前作で超人だと描いてきた彼らを、本当は違うのでは? 妄想よ、と治療しようとするわけで。見ているこちらも、んんん?? ってなる。
 けれども、シャマラン監督だからな~~って思うので、そうはいっても騙されないぞ? とか、いややっぱ違うってことでアンチヒーロー的な??? って見ながら翻弄される。ステイプルに惑わされる三人まんまな気分を味わって面白かった。
 けれどやはりさらにどんでん返しのどんでん返し~~。

 タイトル、「ミスター・ガラス」なわけで、まんまと脱走成功する黒幕、で、ニューオープンのタワービルで対決だ、ヒーローものらしくな、ってことで、おお? ダイ・ハード的なことになるんですかー? と含みもたせておいて。そこには行かないーーっ。
 結局病院の敷地内庭先で、こじんまりと決着ついたか、と。医者が実は謎の組織~~っ。って、そっかーそういう感じ、と、思ったらまだ、やっぱりミスター・ガラスが上手だった!という。ミスター・ガラス、ヴィランを装っていながら、これ、まんまヒーローの名前がタイトルになってる、スーパーマンみたいなことだったのね。
 ヒーローといってもダークヒーローというか。ミスター・ガラス、ダンとケヴィンの超人性を引き出すために一般人殺しまくりだったりなわけで、やはりヒーローではない……。

 自分が超人的能力があると思いこむなんて馬鹿げてる、と封じ込めにくる謎の組織。これってヒーローものっぽくしつつ、可能性の物語なのかなと思う。自分に力があると、信じられるかどうか。そんなの馬鹿げてるという理解ない他人の声に惑わされるな、ということか。
 そして、彼ら超人がいる、と目にした世界からは、さらにヒーローが、自分の力を自分で認めることができるヒーローが、超人たちの目覚めが始まるのかなあ。
 彼ら三人は殺されてしまったけれど。

 殺されてしまったけれど、ケヴィンは、ケイシーと心を通わせることができて、自分になれた。ミスター・ガラスはママに自分の価値があったよ、って言えた。ダンは、えーと、どうだっけ。ダンは、息子に自分は本当に超人だって見せられたのがよかったのかな。それぞれに、ただ不幸な結末ではない感じがあって、ちょっと、救いかなあ。そして彼らの姿が世界を変えるきっかけになるかもしれないという未来への希望かなあ。

 ジェームズ・マカヴォイが「スプリット」につづいて24の人格があるキャラを熱演! ほんっとに、すごい、人格交代されてるように演技力だけで見せるのすごい。エンドロールの時に、その人格キャラの役名がそこそこずらっと出てて、キャスト名マカヴォイ一人で、ふふって思っちゃった。

 ともあれ、三部作見られてよかった。よくこんなに展開させられるなあって感心しました。

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 『冷えたひだまり』 (梶黎子/六花書林)

 『冷えたひだまり』 (梶黎子/六花書林)


 2018年9月13日刊。第一歌集。
 2003年から2016年までの未來誌掲載の中から、製作年にはこだわらず編集の338首をまとめたもの、とのこと。

 社会詠がけっこうある。えらそうにかまえるのではなく、当然のようにそれもまた大事な作者の思いという感じが伝わってきてすんなり読める。正直私自身は社会詠を読むのが苦手だけれども、この歌集の中ではあまり苦手って感じはなかった。

 父、母のこと、介護や看取り。大変なことではあるけれど、歌に表現されるとき、作品に昇華している透明感があるようで、少し冷えたその思いを受け取るように読んだ。時々ちょっと私にはわかりにくいと思ったりしつつ、どの歌からも情景が広がるようで、面白く読ませてもらった。


 いくつか、好きな歌


  聴くかたち欲しがるかたち泣くかたち 冬月ふかく空に悩める (p35)

 父の死の場面の一連の中にある一首。「かたち」は父の姿かなと思う。違うかな。自分たちの姿かなあ。「かたち」として、概念が人のかたちをしているように思った。なんの説明ではなくただそこにある「かたち」の人。そして思う冬の月。うまく読み解けていないと思うけれども、惹かれた一首だった。


  吐くものは魂の他なにもなしひと日うすうすと眠りいる犬 (p64)

 これは、犬の最期ということでいいかな。もう多分何も食べなくなっている老いた犬の眠る息は魂を吐いているという命の果ての感じがすごいと思う。魂を吐ききってしまったらおわりなのだ。


  きさらぎと弥生をつなぐ糊代に冬を閉じゆく閏日にして (p121)

 閏日を冬を閉じる糊代、と表現しているのが面白くていい。これから閏の年にはこの歌を思い出すことになるだろうなって思う。三月になってもたぶんまだ寒いけれど、早春の寒さなんだなあ。


  いのちを刻む音にも聞こえ雫するカランをしばしそのままにせり (p134)

 ぽたぽたと落ちる水の音。母の死が近いことをわかっている時で、なんでもないそんな音が命を刻む音にも聞こえるという切々としたものが伝わってくる。じっと、ぼうっと、鬱々と、ただその雫の音を聞くひとときの言いようのない重さがずっしりとくる。でもしばらくたったら立ち上がり、蛇口をキュッと閉めていくのだと思う。このひとときが歌になったことがとても沁みた。


  歪なるりんごを卓にならべれば傾くというちから満ちたり (p149)

 歪であっても林檎はりんごで、赤くつやつやと美味しそうなのではないか。「傾くというちから」という表現がとってもよくて、このりんごをいいなあと思った。


  寒の朝ふたつ並べたドーナツの穴にもあわく粉雪のふる (p203)

 ドーナツに粉砂糖がかかっていて、穴にも、というか穴の下のお皿かなんかにもかかっていて、というのが目に浮かぶ。寒の朝なのでお砂糖の雪、という素直な見立てがとっても可愛いし、ドーナツが二つならんでいる幸せににっこりしてしまった。寒の朝、というつめたい空気感があるので甘すぎない。ドーナツの穴とは、なんて哲学考えてみてもいい。けどとにかくドーナツ食べたいな~。すごく好きな歌です。


  図書館の開館時間にまだはやく花掃くひとを眺めていたり (p211)

 開館前の図書館の入口近くに、作者一人、か、あるいは多分何人か、図書館にきている人がいて、まだはやくて、掃除をしている人の動きを見ている。花が散っているんだなあ。この情景の清潔さが心地よくて、私も図書館好きですし、すごく共感しました。

 歌集タイトルの「冷えたひだまり」という語感が持ち味なのだなあとわかる。このバランスが素敵な歌集でした。


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『感傷生活』 (佐伯裕子/砂子屋書房)

『感傷生活』 (佐伯裕子/砂子屋書房)


 2018年9月13日刊。第八歌集。

 感傷生活、という印象的なタイトル。きれいな本。
 2011年から2017年半ばまでの歌をまとめた歌集。

 感傷というと、感傷に浸るとか溺れるとかウエットな方向を思うけれども、歌集を読んだ印象は、感傷にひたりはしても静謐で凛々しいものだった。母との関わり、子どもとの関わり、作者の歌の率直なうつくしさに感動する。こういう柔らかな歌で、一首一首素晴らしく驚かされる凄さって、すごい。あ~も~私なんかが言うもおこがましい言うまでもなく上手くて、言葉が見つけられない。平易なようでこわい。なんていったらいいの、この、……生身の生々しさもある。歌の世界の美しさにも昇華されてる。凄いなあ……。


 なんもいえないので。いくつか好きな歌。


  ともに戦後を長く生ききて愛らしく小さくなりぬ東京タワー (p16)

 戦後、と言う重みがある。けれど東京タワーを愛しく眺めているかわいらしさのまさる歌で好きです。長く生きて、とか、単にかわいい以上の奥行を感じるけれど、すんなりと可愛いなと思わせてもくれる。


  あきらかに悲しむ心に驚きぬ日本晴れという語を見たるとき (p17)

 「日本晴れ」って快晴の青空で、あかるい言葉だと思うけれど、作者はこの言葉を見た時に悲しみ、悲しんだ自分の心に驚いた、ということだと思う。どうして、と立ち止まる。はっきりとは私にはわからないけれども、2011年頃の作品のようなので、やはり東日本大震災の頃の「日本」の複雑さなのだろうか。私にはたぶんちゃんと読み取れなくて、でも、すごく、立ち止まらせられた歌だった。


  歳月はふっと消え去りゆきしかば「ふっ」という息の妙なる香り (p35)

 ふっ、という言葉の息遣いをこんな風に感じさせてくれることができるんだ、と、ぐっときました。ふっ、と、この歌を読むとき息を吐いてしまうね。ふっ。ふっ。そして歳月が消え去ってゆく。力の抜き加減が絶妙だと思う。


  びっしりと芽吹く夜空のむず痒さわたくしにまだ母がいるから (p47)

 母と娘という関係の、それぞれの人のそれぞれの在り方。この歌では「びっしりと芽吹く」「むず痒さ」と表現されている、ああ、そういう感じなのか、と、そういうがどういうなのか私にはいいかえることは出来ない、ああでもそういう感じなのか、と、すっごく伝わってくるものがある。なんでしょうね、なんだか、ほんとうに。すごく伝わってくるすごい。


  炎天の電話ボックス 飴のように古い言葉が溶けているらし (p55)

 電話ボックスの数は減ってきている。炎天の中、取り残されたような電話ボックス。とけるような暑さ。かつてこの電話から交わされたたくさんの言葉はもう古い言葉としてしかなくて、飴のようにとけている、らしい。言葉が物質としてそこにあるようなのが面白い。うんざりする暑さと、寂寥とがあって、いいと思った。


  誰もだれも脆き内臓をもち歩く、と思えばやさしき街の景なり (p61)

 街の人混みで、そんな風に人間を見ていると思うと、とても怖い視線のように思う。とても優しいようにも思う。脆い内臓をもちあるいている脆い人間のあやうい皮膚いちまいの頼りなさを実感してしまった。それは無差別殺人で傷つけられてしまうかも。脆いからこそ互いに思いやらなくてはいけないものかも。内臓、という生生しさがむき出しになっているような、すごいものを突き付けられた気がした。


  隅に居るひんやりとした固まりは亡母ですからどうぞそのまま (p77)

 母はなくなり、そのことをいくつか歌にされていた。そして「隅に居るひんやりとした固まり」として、落ち着いたのかな。こういう風に思いは変化していゆくのだろうか、と、興味深く読みました。「ひんやりとした固まり」として亡母がそこにいるという認識はすごい。


  みんな風 名をもつ風ともたぬ風ひたすらにして吹きとおりゆく (p137)

 初句できっぱり言い切っているのが強くてかっこいい。どんな風だとしてもそれはみんな風。人生は風、という感じに私は惹かれるんだなあと思った。


  日の暮れは体が青くひかるのよ家の扉の前のところで (p143)

 水族館へいってきたり医療機器にかかったりして、体にいろいろなものを通してきた歌がある一連の中。「青くひかるのよ」と当たり前のように言われて、え、と思う。思うけれど、何かこう、体を通してきたものたちが、ひかる、のかな、となんとなく納得する。日暮れの薄闇せまる中、青くひかるわたし、というイメージがとても幻想的。家の扉の前、ということは、ひかる自分を家の中には持ち込まず、という感じかなあ。異界のものがすうっと紛れているようで、すごくきれいだと思って惹かれました。


  戸を開けると西陽がいきなりわれを呑むあらゆるものはみんないきなり (p155)

 今度は家の中から外へ。外の西陽にいきなりのまれてしまうわたし。いきなり、ということを、あらゆるものはいきなりだ、っていう改めての発見、夕陽の中の眩暈のような感じを読んで体感できるような気がした。あらゆるものはいきなりなんだよ。大変だよな。

 歌集の中のどの歌も、豊かなイメージを届けてくれる、読み応えある一冊でした。

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『リヴァーサイド』 (飯田彩乃/本阿弥書店)

『リヴァーサイド』 (飯田彩乃/本阿弥書店)


2018年9月9日刊。(あ、重陽の節句だ) 第一歌集。

2010年から2017年の間に作った歌から328首収録とのこと。

 きれいな淡い水色が幾重にも重なって、☆が散っていて、やわらかい表紙で文字もうつくしくて、こういう第一歌集を出されたのだなあ素敵だなあと手にしてまず思いました。ページの数字が真ん中のほうにあるのね。かわいい。

 一読、何度も呼びかける「よ」がある感じがするとか、何かをとりあげて、作者なりの定義というか、名付けといか、うーんと、こう、作者の視線、作者の思いで、新たに歌に生まれ変わらせているような感じがするなあと思った。異化。詩を作っているんだなと、すごく羨ましく思った。この歌集にあるのは作者が歌でつくりだした世界だ。

 まー正直いって、私の個人的好みとしては、あんま合わないなーとか好きではないかな~というものもあるのだけれども、それはまあ単に好みの問題なので。どの歌もすごいのは言うまでもない。そして時々、ああああああ~~~もえる~~~って、勝手にこっちの思い込みで私の勝手な妄想しちゃったりするのもあって、めちゃめちゃ楽しんで読みました。

 生活のリアルというわけでもない、ような、いやでもすごく密着してるリアルでもあるような、簡単に単純には表現されていない、歌としてのテクニックの上手さとかすごくて、そんな中からほんのり感じ取る生きる生々しさがあって、それも美しいなと思う。
 働いている事、恋のこと、結婚、子どもを授かる、育てる。生身の作者と=なわけではないとはいえ、そういう作者像が見えて、しみじみしたりする。いろんな方向から楽しんで読める歌集ですごく面白かったです。


 いくつか、好きな歌。


  真向ひて頬とほほ寄せあふときになにか刺し違へてゐるやうな (p22)
  花であるきみはすぐさま俯いてうつむくときの花のよこがほ (p23)

 この二首すごいもえころげてしまった。緊張感と、最高の美しさをたたえてる歌だと思う。背後にいくらでもドラマを読み込めるような気がする。好きです。


  左右の耳はことなる音を拾ひつつどこに立つても風の途中だ (p33) (ルビ「左右 さう」)

 この歌を読むと自分が風の只中に立っている気がする。言ってしまえば人生みたいな。生きている途中、風に吹かれて立っているような気がする。どんな風が吹いている中なのかは読み手が今どう生きている途中なのか、ということで感じる風なんだと思う。きっぱりとした言い切りがかっこいいです。


  夜と呼ぶ水槽にいまわれらゐて唇はつけたりつけなかつたり (p49)

 この「われら」の密やかなむつみあいがとっても素敵でもえた。夜、水、閉ざされた空間のイメージ、そして唇。きゃ~ってなる~。


  夕立よ 美しいものことごとくこの世のそとに溢れてしまふ (p68)

 「夕立よ」と呼びかけて一呼吸。それから美しいものすべてが溢れるイメージ。すごく壮大であり、かつ繊細であり、沁みる歌だと思った。


  喫茶店の床にごろりと寝転んだ犬のかたちに呼吸はふくらむ (p80) (ルビ「呼吸 いき」)

 犬も連れてきていいよ、というカフェ、喫茶店といってるからちょっとクラシカルなのかもしれない。床に寝ている犬を見ていて、呼吸して動く体のふくらみを呼吸そのもの中心に見ている、という感じ。ほわーとその犬を私も見ている感じになれる歌で、犬よ、生き物よ、呼吸するものよ、という感じ。面白かった。


  窓ガラスみな外されたビルに開く眼窩にも似た暗がりのこと (p125)

 廃墟となっているビル、解体間近なのだろうか。窓ガラスがなくなったその暗がりを「眼窩」と表現しているのにすごく惹かれた。


  足のうらを剥がし剥がしてゆくことを歩くと呼べり生きると呼べり (p133)

 生きるの、辛いね疲れるねしんどいなもういやだへとへと。という実感がすごく伝わってくる一首。それでも歩いているのだ。すごい。ぐっとくる歌。


  真夜中から抱き上げるこの両腕が子の輪郭を太らせてゆく (p177)

 場面としては赤ん坊に夜中授乳する所だろう。多分眠くて疲れてへろへろで、それでも自分の両腕がこの子を守り育てる実感であり覚悟なんだろうと思う。子の重みが伝わってくると思った。


  振ることを覚えてからは何度でもあらゆる別れを告げる手のひら (p190)

 これは子どもがバイバイと手を振ることを覚えたということだと思う。でもそれを見て思う「あらゆる別れ」は子どものこれからであり作者のこれまでとこれからであり、この歌を読んだ私の「あらゆる別れ」として描かれていると思う。毎日小さな別れがあって、多分時には大きな別れがあって、人は手を振るんだろうなあと、はるばる思った。
 すごく豊かな歌集でした。読んでよかった。


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映画 「特捜部Q ―カルテ番号64―」

*ネタバレ、結末まで触れています。


映画 「特捜部Q ―カルテ番号64―」


 特捜部Qからアサドがもうじき移動になるという時。とあるアパートで管理人が住人不在の部屋を改めると、間取りがおかしいと気付く。あってはならないはずの壁を取り壊すと、そこには食卓を囲む三体のミイラ化した遺体があった。
 1961年、島にある女子収容所。そこでに入れられたニーデは脱走しようとしたことをとがめられ、強制不妊手術の犠牲になった。やがて、収容所は廃止になるのだが。


 そんなこんなで、原作は読んだことあるけど忘れてる、と思いつつ。
先月のシリーズ3本立てに続いて、キネカ大森で 体験ゾーン2019 出張版みたいなことらしく、張り切って見に行きました。
 優生学の信者、狂信者、って感じかなあ。医者が、誰にも言えない中絶手術にきた女の子に勝手に不妊手術してしまうという、あまりにもえがつなくむごい事件。発端は1961年の頃から、というものか。クアト・ヴァズという医者が密かに寒い一族だっけ、なんかそういう秘密組織みたいなのをつくっていて、賛同している医者とか政府や警察にも信奉者がいて、移民排斥みたいなことをやっていると。

 これ、私自分が原作の本を読んだ時の感想見直してみたけど、本の方がもっとえげつないキツイ感じがあったのかなーと思った。映画化は、本の時よりさらに数年たっている今、で、移民問題とかたぶんなんかいろいろある今、2018年(製作年)ということを描き出しているのだと思うし、原作からのアレンジもうまくやっているのだと思う。

 なんにせよ、女を、モノのように子宮というモノのように、人としての人格、思い、何もかも無視した強引で最低最悪な下劣な思考とそれに賛同し実行していく仲間がいるという、ほんっとうに酷い話で、めちゃめちゃ、キツイ。辛い。すごい辛い……。

 このシリーズ、毎度事件側での女性がいろいろタイヘンなんだけれども、女優さんが、すっごい凄まじくて素晴らしく演じて見せてくれている。今回も、凄かった。とてもあどけないほどに可愛い女の子な一面と、性に翻弄されるむごさとか、酷い目にあうとか、そしてあれから数十年、という老いた姿とか。すっごい。すごくよかった。

 で。アサドが移動になる、昇進だ、ってことで、特捜部Qにいるよりいいだろうと思っての事かどうか、カールはアサドにあまりにもそっけない。アサドは、長年一緒にやってきたのに! と、カールの態度に苛立つばかり。
 アサドがよくいく店の女の子が、中絶手術からの、本人に知らされぬままの強制不妊手術された被害者、ってことで、カッとなるアサド。移民排斥差別みたいなのには敏感だものなあ。本当に酷い。一人病院へ乗り込んでいって、殺されかける。危機一髪駆けつけるカール。で、死ぬな、ダメだ、ってなるカール~~~。こんなじゃないと素直になれない男~~っ。ああ~~。
 病院で目覚めたアサドに、やっと、ローセにきみが必要だから移動するな、っていう。そして自分にも、ってさ。も~~~。はあ。可愛かった。

 しかしほんとローセのキャラというか、扱いというか、なんかあれでいいのか、どうにもやっぱり気になる。今後の話も映画化になるのかな。どうなんだろう。んで、もし映画化していくんだったらローセについてどうするんだろうか~。
 今作のラストでは、カールがちょっと人としてまともになろうとしている感じみたいなのがあったし(カフェで女に声かけてる感じだった。恋人作ろうとしている??)アサドともちゃんと友達になろうとしている感じ、で、ちょっと一段落って感じなのかもしれない。
 でももっと映画化見たい気がするなあ。どうなんだろう。


 デンマークの、というに限らないけれども、北欧の人は背が高く美男美女だらけ、みたいなところ、ひょっとしてもしかしてかつて優生学を信じていた影響が、ってふと思ってしまったりして。いやいやフィクション小説だし。けど、もしかして、って思わせる、思えてしまいそうな、そういう人間の一面、みたいなことをちょっと思って暗澹たる気持ち……。
 ほんとキツイ事件だった。辛い。見に行ってよかった。すごいよかった。面白かった。

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『弓なりの海』 (北野幸子/青磁社)

『弓なりの海』 (北野幸子/青磁社)


2018年8月31日刊。第一歌集。

 未来入会から30年という中での第一歌集という。本そのものも、細い糸のような曲線が表紙から中まで彩り、くっきり横縞模様があり、優美な金箔のタイトルの文字があり、とてもきれいなもので、手にして柔らかく馴染むものだった。弓なり、とは、天の橋立、若狭湾をいうようだ。私は見に行ったことはないのだけれども、著者には身近なこの景色、自然が歌集の中に表れていて、心地よく読ませてもらった。

 基本的には、個人の穏やかな暮らしの歌で、親しみを覚える。特別な殊更な劇的な出来事でなくても歌は歌としてうつくしくある。暮らしていて、そうそう日々ドラマチックでもないけど、楽しさも悲しさもほんのりとあるよねえという自分の実感を思う。そんな中でも歌をよみつづける確かさを感じられて、いいなあと思ったし大切なことだなあと思う。


 いくつか、好きな歌。


  しなやかに伸びるセーター被りつつ赦されるボーダーラインを探る (p17)

 肌触りのいいセーターなんだろうな。「赦されるボーダーライン」とは具体的に何とはわからないながらも、なにがしかの罪を思い、赦す、赦さないということを考えるふとした瞬間の機微がある感触にひかれた一首。


  透明な玉かんざしが徐々に吸ふ祭りの果ての闇のうすあゐ (p24)

 お祭りがあって、着物、というか多分浴衣かな、そして玉かんざしを飾る装いをしていて。宵の果ての闇を透明な玉かんざしが吸う、というイメージの美しさがとっても素敵だ。妖しさがあって好きでした。


  冬の陽に投げ出すこころ葉ぼたんのやはらかき渦に巻かれてゆきぬ (p47)

 なんかこうやるせなくて投げ出してしまったりするこころが、葉ぼたんに包まれてくれれば、それは寂しくも安らぎのような気がする。こんな風におさめられるのは素敵だ。


  カーテンに抽象の花は連なりて春と思へば春の花咲く (p92)

 カーテンに花模様があるのかな。それは多分具体的な何の花という絵ではなくてシンプルな線画のような模様なのだろう、と想像した。それを見るものの思いによって春の花に見える。夏には夏の、秋にも冬にも、どんな花にも思い描けるのだろう。すごくいいカーテンのように思える。すごく自由なものなんだと思えて、いい歌だと思う。


  点滴につながれし母につながれて黄砂のつづく日々を籠れり (p122)

 母を見舞い、つきそっている情景がよくわかる。黄砂にふさがれている感覚と病室に籠る感じの気分が重なって、読んで小さな溜息をつくしかない気持ちになる。なんていうか全然私にはうまく言えないけれども、すごく伝わってくる感覚があって、沁みる一首。


  どの道を辿りてもここに着くやうな縁側の隅の一脚の椅子 (p158)

 人生のどんな道を経たとしても、とまで思うのは大仰だろうか。歳月を重ねてきていて、そして多分毎日のいろんなことがあって、でも縁側にお気に入りの椅子があるというほっとする気分だと思う。ささやかな、けれど確かな場所があってよかったような。縁側の隅の、けれど日当たりはよくて落ち着ける場所なんじゃないかな。そういう椅子が欲しいです。


  しらさぎをゆめの浅瀬に飛び立たすふるさとは円き弓なりの海 (p161)

 歌集の終りの一首。ふるさとをうつくしく愛しく歌っているとてもきれいな一首。

 全体的に歌のことばが柔らかく、リズムもよく、気持ちよく読ませてくれる歌集で好きでした。歌は調べだ、ということを改めて思いました。


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『ラプソディーとセレナーデ』 (鷺沢朱里/短歌研究社)

『ラプソディーとセレナーデ』 (鷺沢朱里/短歌研究社)


2018年8月12日刊。第一歌集。

 重厚な歌集。歌数も多く本の重みもずっしりでした。
 独特な世界がみっしり詰め込まれていました。屏風絵の世界の歌、絵、画家、宝物、古い物語の世界の歌。章立ては「楽章」ということで、この一冊はクラシック音楽のような歌物語ということか。

 読むのに身構えてしまうのは、私自身の教養のなさというか、これ読めるのかなあと不安になってしまうから。作者はその題材に深く傾倒して歌をつくっているのだと思う。で、読む私は、どういう距離感で読めばいいんだろう、と、まず考えこむ。物語として読む、のだろうけれども、たんに連作から読み取れる物語って思っていいのかどうか、迷う。物語っていうなら小説のほうがいいわけで、歌として表現されている意味と意図って、どう、読み取ればいいんだろうか、と、私にはうまく腑に落ちてこない。作者の思いにまで私のほうがたどり着けないんだろうなあと思う。全然よい読者になれなくてごめんなさいと思う。

 で。ともあれ、私に読めるように読むしかなくて、歌から読める物語を味わう感じで読んだ。んでも私が作中主体っていうのか作中人物について知識も理解も足りてなくて、ん~、なんかこういう感じなのか、と、ふわっとした気分だけ味わいました。

 言葉が硬い感じが残る。単に鉱物だとか宝石みたいなのがいっぱいあって、っていうのもあるし、漢字、漢語がおおいような気がする、という気がする。ぱっと見開きの中に歌数多いし漢字が多いなあっていう、アホな感想もってしまって、ごめん……。
 こういう文体の作者なんだな。

 物語や古典に題材をとったものではない、多分極めて個人に近い歌として、うつのこととか祖父との農作のこととか介護の歌は、あんまり身構えずに読めて、比較的わかりやすい気はした。心情にもそうことができるような気がする。
 
 「古典的な美意識の復権」と帯にあったように、短歌というか、和歌というか、ただの今の日常とはかけ離れた美の世界を構築しようとする意欲の作歌で作家なのだろう。その美意識はとても素敵だ。ホント、読んでいて私がダメ読者で申し訳なかった。


いくつか、いいと思った歌。


  宵闇にふるへる手もて肉つかむ息きれぎれに君の名を呼び (p27)

 「青年二人同衾図屏風」という一連から。きゃ~随分赤裸々ですね///と思った一首。これは自慰のシーンととったけど、個人的思い込みすぎるかな。「肉つかむ」が生々しくてよい。


  空といふ青き皮膚すら冒しゆく悪しき肉腫となれ日蝕よ (p28)

 これも同じ一連から。空、日蝕、という自然を、皮膚、悪しき肉腫、という、生々しい肉の表現にしているのが凄味がある。日蝕って空が癌に犯されていくようなイメージなのか。凄い発想だと思う。古来思うまがまがしさが伝わると思う。


  クリニックに小さな竹が植ゑてある身の丈を生きよと言ふがごとくに (p51)

 なんだかひどいめにあって職場を持して心を病んでのクリニック通い。苦しさが強く伝わってくる一連の中、この一首の所で、ふ、と、変化が訪れたように思えた。小さな竹、身の丈を思って、いいんだ、大丈夫なんだ、と思える瞬間がきたのではないか。はりつめていた息苦しさから、ふ、と呼吸できたような一首に思えて、よかった。


  さくら色の鬱の薬をまた今日ももらひて風のなかに立ちをり (p55)

 たぶん小さなピンク色の錠剤なのだろうと思う。その薬を「さくら色」と捉えている繊細さの哀切を思った。すんなりとした歌だけれど切なさをとても感じて好きでした。


  ごはんだよチューブに柔き冬の陽のひかりも混ぜて介護する日々 (p63)(ルビ「柔:やは」)

 自分を助けてくれていた祖父に介護が必要となった。そのために資格もとり、そばにいる優しさと悲しさ。ごはんといってもチューブでのもので、でもそこにひかりを混ぜてという心情がしみじみと優しく、悲しかった。

 物語世界的な連作は、好きな一首とか選べなかったなあ。物語だから。
 あとうっすらと想像したのは、日本画かなにか志した想い人か恋人かがいたけれどもなくした、という背景があるのかなあ、と、なんとなく。
 たっぷりとした歌集でした。

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映画 「蜘蛛の巣を払う女」

*ネタバレ、結末まで触れています。

映画 「蜘蛛の巣を払う女」


 まだ子どもの頃のリスベット。カミラと姉妹仲良くチェスをしている。二人とも天才的に見える。そして、父に呼ばれた。父は、二人を見てもう十分大人だね、と微笑む。ゲームをしよう、と、誘う。カミラは頷くが、リスベットは拒否した。カミラにも逃げようというが、カミラはこない。窓から落ちるように逃亡したリスベット。
 女を傷つける男を個人的に罰して女性を助けているリスベット。ハッキングの仕事の依頼がくる。世界の核兵器にアクセスできてしまうプログラムを盗み出して欲しい、と。


 結局原作を読んでないままです。こういうお話になってくのかあ。ミステリものと思い込んでいたけれども、かなりアクション映画っていう感じ。リスベット超人的に強いっす。ハッキングもばばっと天才的。ハッキングバトルかと思いきや、銃撃戦肉弾戦でしたね。激しく面白かった。

 前作「ドラゴンタトゥーの女」が、すっごく強烈で好きで。ルーニー・マーラーのリスベットと、ダニエル・クレイグのミカエルのコンビがとってもよくって、大好きだった。なので、キャスト変わっての続編って、うーん、と思っていたのだけれども。
 見るとだいぶ違うテイストだなあと思い。ミカエルなんて出番少なくて、あんまり役にも立ってなくて、というかむしろ攫われて人質にされてっていう方の役割。まあ、ミカエルはいまいちダメ感のあるジャーナリスト、普通の男、というキャラなのだろうから、このくらいの、感じなんだろう。ダニクレだったら、お前~無能かよボンド~~~と突っ込みたくなったと思うので、キャスト変わったのは仕方ないというかよかったというか、まあ、まあ、いっか、と納得しました。

 で、メインキャスト交代しておきながら、ミカエルとリスベットの関係は基本的に前作の話知ってますよね、という感じで説明最小限。まー、ん~まあ、いいのか。こっちが初見だったらどうなんだろう。まあ、ミカエルの出番少ないから、なんか昔なじみかな、くらいでいっか。わかんないけど。
 けど、なんか、リスベットがミカエルのこと大好きでミカエルも未練ありますみたいな風情だったのか、なんかな~~~。なんか。そうかなあ、と、違う気がしてしまった。前作、リスベットはちょっと好きになってきたのに、って感じで、でもどうにもならなくてって感じだった気がする。ミカエルはリスベットのこと好きとかじゃないよねえ??? 記事書くネタとして今も未練たらたらって感じなのか?? 原作だとこれ4作目なんだっけ。間になんかあったのかなあ。うーん。まあ。まあいっか。まあいいけどなんか、な~。あの二人の感じに関してはなんだかなあと思った。

 やはりリスベットの物語なんだなあ。
 実は父親はロシアマフィアのサイコパス。強引なSMプレイとかしてるみたい。相手に容赦ない、多分殺したりもしてるんだろう。そんな父の元で、双子の姉妹? カミラは大人になった。リスベットと共に逃げなかったから。リスベットは彼女は3年前に死んだと思っていたけれど、実は父亡きあとを継いで、スパイダーズって組織作ってたりして。リスベットに、何故助けにきてくれなかったの、と、泣く姿の哀切さよ。
 一緒に逃げようっていったのにあなたは父を選んだ、とリスベットは言うけれど、まだ処女であった頃の判断ミスを、誰が責められるだろう……。
 そしてリスベットも、助けに行くにはあの家が、怖すぎたのだろう。辛い……。超人的に強い彼女の中の恐怖。

 リスベットがアメリカから奪い、次にスパイダーズに奪われた、核兵器にアクセスできるファイル。それを開発したパパ、お前が一番、アホかというかなんていうか。なんでそんなもの開発したんだよー。しかもそのシステムの元にしたのが、天才息子の思考方法ってさ。アウグストくん。とても可愛い美少年だった。パパは命を落としたけど、最後にはちゃんとママが迎えにきてくれててよかった。唯一の救い……。

 舞台はスウェーデンだっけ。さすがもうめっちゃ寒そうで、見てるだけで震える。カーチェイス、バイクチェイスするんだけど、ああああ~路面凍ってるんじゃないのおおお~~~怖いっ、と、凍結に一番に怯えてしまうわ。すっごいなあ。

 肉弾戦も、銃撃戦もかっこよかった。リスベットの悲哀みたいなのもよかった。
 登場はほんのわずかの、リスベットたちの父をやってたの、ミカエル・パーシュブラント、だっけ、だよね? ちょっと自信ないけど。けど、あれはミカ様なのでは。素敵。ロシアマフィアでサイコパスドSとかすごいたまらん。なんてのも参りました。あんまりいい評判きかない気がしてるけど、見に行ってよかった。

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『午後四時の蝉』 (竹内文子/砂子屋書房)

『午後四時の蝉』 (竹内文子/砂子屋書房)


 2018年7月8日刊。ほんとはタイトルの「蝉」は正字ですね。すみません。
 第四歌集。2007年から2017年の期間をほぼ年代順に編集したもの。

 著者のことはわからないなりに、読んでいくと浮かび上がる日常があって面白い。
 いろいろな国や地方に出かけているみたい。旅がお好きななのかなあと思う。海外も国内も、いろんな地名が出てくる。多趣味、教養人という感じがする。それをはっきり理解できなダメ読者な私という感じ。わからないなりにも、ほわんとイメージが膨らんで、軽やかさのある歌にくすっとなったり、楽しませてもらった。


 いくつか、好きな歌。


  ほらは吹く嘘はつくとふ秋の夜はほんにをとこの背のうつくし (p17)

 一首目がこれで、なんだかとってもいいなあと思った。ほらは「吹く」で、嘘は「つく」だなという、何やらその違いについて思う事ある秋の夜だったのか。そして眺める男の背中がうつくしい、って、誰の? なんで? とわからないのだけれども、なんだかほら吹きな愛しい男が目の前にいるようで、とても愛嬌があるように思えた。


  きさらぎの分厚き雲をしたがへて絶対君主のやうな落日 (p41)

 「絶対君主のような」という喩にとてもひかれた。とても赤々と見事な夕陽だったのだろうと目に浮かぶ。きさらぎということで、ひりひりと冷たい空気も感じる。かっこいい一首。


  一兵を見れば背後に百匹のゴキブリ兵が出陣待つとふ (p52)

 ぎゃー、って思ってしまった。ゴキブリ退治の一連のしめの一首。まだまだ続く戦いの予感がこわいながらもユーモアがあって面白かった。


  どこまでも落ちこむ国の蜘蛛の糸にぶらさがつてるわれら老い人 (p105)

 シニカルで、けれどじわじわと読んた私がどこまでも落ち込む気がする歌でした。仲良くぶら下がっていたらお釈迦さまが助けてくれるんだろうか。けれどきっとどこかで糸は切れて、天上のお方はやれやれとため息をついて見捨てるんだろう。やれやれ……。


  遅れたる「ひかり」の窓ゆきさらぎの横に吹かるる雪みつつゆく (p145)

 新幹線、ひかりによく乗っているみたい。新幹線から見る富士山の歌もたくさんあった。雪で遅れた新幹線が動き出し、しかしなお雪が横にくるという。列車の速度と雪の降りようで、冷え冷えとした気持ちがした。


  思ひ出を掬へばほろりと消えさうで もう帰らうといふこゑのする (p152)

思い出を思い出す時、思い出があるというのはそれがもう遠い過去でどうしたってどうしようもないもので。そういう切なさを感じた歌。その声は誰の声なのだろう。愛しく思う。


  くじ運は縁なきものと、でもさあと年末ジャンボの列に混じりぬ (p167)
  何もかもうまくゆかぬ日 三色のボールペンさへわれを嫌ひぬ (p168)

 「でもさあ」というタイトルです。あ~わかる~って一緒に言いたい感じ。でもさあ、当たるかもしれないし買わないと絶対当たらないし、年末ジャンボね~。そして何もかもうまくいかなくてボールペンにさえ、お前私が嫌いなのか、と語りかけたくなるような気分。「でもさあ」って、すごくいい。好きでした。


  降り初めばいざ帰らなむ雨の子がちりちり走る「のぞみ」の窓に (p244)

 お。のぞみに乗るようになったのですか、と思った。雨粒が窓にあたって、ちりちりとあとひいて横に流れていく感じですね。よく見えてくる歌。


  そりやあねえ骨折だつていろいろな場合があつてもとにかく痛い (p273)

 これすっごく率直な歌で、くすってなってしまう。大変なことなのですけれども。骨折を何度かなさっているようで、どうぞお大事にと思う。ほんと、とにかく痛いだろうなあ。私はまだ骨折したことがなくて。できればずっと経験はしたくない。とにかく痛いんだろうなあ。

 ずっしりたっぷりな歌集で読み応えありました。


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『孤影』 (江田浩司/ながらみ書房)

『孤影』 (江田浩司/ながらみ書房)


2018年6月20日刊。

 2005年から2016年の期間の作品から329首を収めた、編年体を基本とした歌集。8番目の創作集、とのことで、第8歌集というわけではないってことかな? 詩とかいろいろもあったりするから? あまりわかりませんが。

 基本的に編年体、ということで、歌で、すんなり歌集として読み易くてとてもよかったです。歌を作ることを思っている歌がたくさんあるなという印象が残る。日々の中で、本当にすごくいつも歌の事、詩歌のことを考えてらっしゃるのだろうなあ。
 言葉というか、単語が硬いなあという印象も、なんとなく残る。死、という言葉も。
 『孤影』というタイトルが象徴する感触かなあ。重なるグレイの色の中に白く、かっちり、小さめの字で記されたタイトル。著者名。こういう気配を持つ歌集なんだなというの、なんとなく納得しました。私に読めてるかどうかわかんないしわかったとは言えないと思うけれど。


 いくつか、好きな歌。


  いくへにも死んだわたしが折りかさなり夕陽にそまる風を見てゐた (p19)

 死んだ私が死んで折り重なっている私を見ているような、万華鏡を覗き込むようなくらくらする感覚に陥った。風も死んだ私も見えないものだけれどその空虚を見ている寂寥感がうつくしい。


  月のおと聴く耳をもつ獣らがたづねてきたり夜明けの夢に (p43)(ルビ「獣:けもの」)

 月の音ってどんな音だろう。それがきこえる耳をもつ獣だけがきくことができる音なのか。とても幻想的で素敵なイメージで好き。「夢に」ってしちゃうのは私の好みとしてはなしだなーと思うけどまあ、な。


  君の傍にいつもしづかに踞る小さな影のやうにわたしは (p74)(ルビ「傍:そば」、「踞:うづくま」)

 この「君」は妻なわけですよね。ほんとうに仲良しご夫婦で素晴らしい。君のそばでうずくまるっている小さな影であるわたし、という控え目な、けれどいつもずっと、という愛ある思いでステキです。さらりとした静かなきれいな一首になっててすごくいいなと思った。


  日常に釣瓶をおろす営みのいやな感じはどこにでもある (p96)(ルビ「釣瓶:つるべ」)

 日常の中のいやな感じっていうのはあって、それを釣瓶をおろす と表現しているのが面白かった。


  わが内に潮のたまるところありことばの光りとどくときある (p130)(ルビ「潮:うしほ」)

 自分の中に満ちてくる潮があること、そこにことばの光りがとどくということ。それはいつもじゃなくて時々なんだなあという感じ。そんな風に歌が、詩が、この作者にはうまれてきているのかというのが伝わってきて、いいなと思った。そんな風にできた詩歌はとてもよいものなんだろうなあ。
 堪能させてもらいました。


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『短歌と俳句の五十番勝負』 (穂村弘×堀本裕樹/新潮社)

『短歌と俳句の五十番勝負』 (穂村弘×堀本裕樹/新潮社)


2018年4月25日刊。

 歌人と俳人がいろいろな出題者から出されたお題にそって、短歌と俳句をつくってエッセイそえて勝負、という本。雑誌連載のまとめと、語りおろし(?)対談つき。
 題詠という決まりと、短歌と俳句の読み比べができて面白かった。解説ってわけじゃないけれどもエッセイつきなので読みやすいし。
 この本をテキストに読書会というか、読み合ってどーのこーのいう会に二回参加しました。こっちが勝ち~とか、このお題は難しいとか言い合って楽しかった。俳句の方たちとお話できてよかった。

 お題の出題者がけっこう個性的で、その人らしいなーという題が出たり、なんか、えろいお題をなんとかこなす、みたいなお二人の作品作りのご苦労を思ったりするのも面白い。
 エッセイでの、歌づくりの苦心とか、別に関係なく思い出話みたいなのも読めて、いきなり歌集とか句集を読むのはちょっと、と思う人でも読みやすく、というものなんだろうなあ。

あとがき対談、すごく読み応えあってよかった。歌とか俳句つくる工夫というか苦労というかの話。題詠は思いがけないことにとりくむことになるから大変だなあ。
面白かった。


いくつか、好きな歌や俳句。

題「まぶた」 左目に震える蝶を飼っている飛び立ちそうな夜のまぶたよ  穂村弘 (p30)

これ一番好きだった。うつくしい。すごく姿が決まってるなあと思う。きれい。


題「黒」 点描の黒猫の目の夜寒かな  堀本裕樹 (p67)

俳句ではこれが一番好きだった。点描という細やかさ、それが黒猫、で、その目にぐっと焦点がいって、夜寒、というのが決まってると思う。かっこいい。


題「誕生日」 垂直に壁を登ってゆく蛇を見ていた熱のある誕生日  穂村弘 (p126)

これ歌集にも入ってた。熱がある、というふわふわした身体感覚、それが誕生日っていうほんとうなら特別ないい日であるはずの日であること。そこで見た、蛇。垂直に壁を登っている、という、不思議な感じ。朦朧とした夢のような、けれどげんじつでもありそうな、ひかれる歌。


題「着る」 濡れ衣を着せられしまま秋の蜘蛛  堀本裕樹 (p155)

何の濡れ衣をきせられちゃったんだろう。蜘蛛って不気味、みたいな所と、しんと寂しい感じの秋の気配と。濡れ衣、と言う湿り気と冷たさがよく響いていると思う。好き。


題「瀬戸内海」 蝶生れて瀬戸内海の綺羅となる  堀本裕樹 (p183)

私は瀬戸内海地方というかまあ愛媛松山出身なので、瀬戸内の海の穏やかな波がこまやかにきらきらとしている景色を思い浮かべる。そこに生れし蝶、とは、幻のようなものだと思う。綺麗。

五十番勝負ってことでなのかなんなのか、著者のお二人が忍者のコスプレ? とかしてたりして、いろいろサービスしてくれている一冊でした。

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『水中翼船炎上中』 (穂村弘/講談社)

『水中翼船炎上中』 (穂村弘/講談社)


2018年5月21日刊。4冊目の個人歌集になります、とのこと。

 しおりというか、「メモ」が入っていた。装丁が9パターンありますとかのデザインのこだわり紹介。読者へのガイドとして各章の背景、時代とかが「現代」「子供時代」「思春期へのカウントダウン」だとか説明されている。
 親切設計~と思う。こういうのって、歌から読者が読み取っていくのだと思うのだけど、穂村さんは、エッセイストという面もあって、エッセイは読むけど短歌ってわかんないとかいう読者にも親切にしたい、という感じのメモなのかなあ。あくまでガイドなので、そのガイドに従って読めばわかりやすいけど、好きな歌については私が勝手に深読みしちゃお、みたいなのもかまわないのだろうとは思う。

 ステキな装丁で、素敵な本で、17年ぶり待望の歌集!みたいなことで、おお~~~~、とわくわくで買いましたね。そして、読んでみて、おお~? これまでのキラキラな感じとは違って、普通に歌人の普通に歌集だなあという感じがしました。
 雑誌かなんかで歌集にまとまる前の歌を目にすることはあって、初見ではない歌もたくさんで、それはそれ、で、やっぱりこう一冊の歌集にまとまると、ああ歌集らしい歌集、という気がした。勿論当然すごいさすが上手いと思うし、穂村さんの感じ、という感じはする。小難しい歌はあまりないけれどもあたりまえの言葉なのに角度が独特な。ひかりの当て方が独特、な、というか。そうでありつつ、年をとって親の死や老いなんかに出会う一人の人間という感じ。
 そっかーこういう歌集出すのか~。と、なんか、なんかわかんないしうまくも言えないけれども、そっかー、という気がしました。そっかー。でもやっぱ私がわかんないんだろうかー。わかるわけないか~。けどなー。


いくつか、ひかれた歌。


  電車のなかでもセックスをせよ戦争へゆくのはきっと君たちだから (p15)

 若者を見る年長者、の視線。だけどさ、若者はもうあんまりそんなにセックスもしたくないんじゃない? いやまあ私若者じゃないしわかんないし、それぞれしたい人もいっぱいいるのだろうとは思うけど。セックスせよ、という視線の持ち方のおっさん臭が凄い。戦争とセックスの取り合わせ方も。歌かなあ。


  血液型が替わったひとと散歩する春は光の渦を跨いで (p25)

 血液型が替わることってある、か。あることはある。赤ちゃんの頃の測定が不確かだったりとか特別な病気とか。記憶違いってことだったりかなあ。その人を示すインパクトとして「血液型が替わったひと」っていうの、面白くて不穏な感じがします。光の渦ってなんだろうと思うけれども、渦巻くような春の陽だまり? うーん。わからないけれど、どっか平行世界に紛れ込んだようなふわふわと微かな違和感にひかれた。


  食堂車の窓いっぱいの富士山に驚くお父さん、お母さん、僕 (p29)

「楽しい一日」というタイトルの章の始まり。何もかもがレトロなノスタルジーに満ち満ちている一首。「食堂車」「窓いっぱいの富士山」「お父さん、お母さん」という言い方、そして「僕」。こんなこてこてにノスタルジー積み上げるって何事かと思う。こわい。こわくなって、これってノスタルジーの姿を借りたパラレルワールド異世界ものでは、と思いたくなる。
 ノスタルジーにひたるって、そのままの昔の思い出ではなくて、美化したり思い出補正みたいなのかけたりして、なんだか特別な過去の捏造って感じで、それってこうだったかもしれない、もっとよかったかもしれない、パラレルワールド妄想みたいなことかなあとまで思ってしまった。穂村弘だから素朴なノスタルジーなわけないか、と、なんか警戒してしまう、これは勝手な思い込みだけどな。楽しい一日かあ。


  楽しい一日だったね、と涙ぐむ人生はまだこれからなのに (p44)

 子供が楽しい一日だったね、と涙ぐむことがあるかな。これは違うのかな。楽しい一日だったね、と涙ぐんでいるのは親だかなんだか、大人のような気がする。楽しそうだった子どもの姿をみて感極まっているのかなあ。んー。いやー。違うか……。わからない。ただただ殊更な「楽しい一日」がこわいです。人生はまだこれからなのにもうノスタルジーの中に閉じ込められれている。


  夕方になっても家に帰らない子供が冷蔵庫のなかにいた (p87)

 これは、ゴミ捨て場の冷蔵庫に閉じ込められて子供が死んだ、みたいな事件があったんじゃないかなあと、曖昧な記憶。その、事件事故であってもいいし、うちの冷蔵庫に家に帰らない子供がいたら、というのでもいいかもだけど、そっけなく歌にされた帰らない、帰れない子どもの存在がとても不気味。ひやりとする闇みたいなのが、リアルだった子どもの頃という感じ。


  天皇は死んでゆきたりさいごまで贔屓の力士をあかすことなく (p118)

 これは昭和の終りの頃のことだけれども、ああもうじき平成も終わりますねという感慨にふける。天皇にも好きな力士はいて、だけどそれを言う事はできない、しない、というエピソードの印象深さ。天皇陛下も人間ですねということが当たり前ではなくてでも当たり前で、でも、という複雑さを思う。特に昭和天皇はなあ。好きなことを好きって単純に言えないっていうの、大変だなあ。というか昭和の終りの感じをこういう歌にするのか、と、面白かった。


  髪の毛がいっぽん口にとびこんだだけで世界はこんなにも嫌 (p130)

 これはすっごく、わかるーと口に出して賛同したいような、わかるーと思う歌だった。


  月光がお菓子を照らすおかあさんつめたいけれどまだやわらかい (p154)

  冷蔵庫の麦茶を出してからからと砂糖とかしていた夏の朝 (p159)

 「火星探検」という母の死の一連の中の歌。母のことは「おかあさん」で、可愛がられた一人息子で、母の死という現実がありつつも、それを遠巻きに眺めるような歌のつくりで、いっそう喪失の大きさ深さを思う。母に関することって作者にとっては甘いんだな。
 夏の麦茶に砂糖、というのが思い出話でよく聞くのだけれども、それって結局おかあさんが作ってくれた夏のさいこうの飲み物、っていうことなんだなあ。


  いろいろなところに亀が詰まってるような感じの冬の夜なり (p176)

 「いろいろなところに亀が詰まっているような感じ」っていったいどんな感じ?????とわからなくってすごい。なんだかわからない黒くて硬くてでもぐにゃぐにゃ生き物がふさいでるような感じ? なんだかともかくままならない冬の夜があるんだなと思った。
 綺麗な本でした。


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『白髪屋敷の雨』 (河野泰子/短歌研究社)

『白髪屋敷の雨』 (河野泰子/短歌研究社)


 2018年3月10日刊。第三歌集。

 河野泰子さんのお歌をじっくり読ませていただいたのは合同歌集の『間奏曲』時で、以来未来紙上で拝読している。私の勝手な一方的な思い込みなのだけれども、河野さんの状況と自分の状況とが似ていると思う所があって、親近感、深い共感を持って歌を読むことが多い。自分が似てるなんておこがましくて申し訳ないのだけれども、なんとなく、勝手に思っちゃってます。とはいえ勿論作者のことは歌から読み取れることしかわからないし、知らないことばかりだし全然違うのだとも思う。けれどもこうしてまたじっくり一冊拝読して、ますます敬意を抱いた。

 東日本大震災の歌で始まる。2011年ごろからということで、歌集の終りの方には熊本地震のことに触れていると思う歌がある。2016年の4月か。5年間ほどの期間、徳島へ移られての日々が歌われている。
 歌としての姿がきれいで、歌っていることとの距離感、バランスがとてもいい。好きな感触。鬱々とした思いも、悲しみも、軽やかな諦めも、自在に歌になっているみたいだ。読みながら何度も、私はこういう歌が好きなんだなあと思った。


いくつか、好きな歌にそって。

  生といふものの健気さ紛れいりしカナブン幾度も硝子を打ちて (p22)

 ほぼ編年順に編まれた歌集とのことで、流れにそって読みました。前にお父様の状態がよくないということがあり、命や生死について思うこと多い日々だったのだろうと思う。この歌はカナブンが飛んでガラスにぶつかって、という、状況がわかって、姿、音までよく聞こえる見える。そこで思うのが「生といふものの健気さ」という切なさ。愛しさ。紛れ込んできたカナブンて、私は怖くていやなものなんだけれども、この歌の心情はとてもわかると思える。「健気」と表現することができるのにうたれた。


  斎場の石をたたける俄雨ほほづゑつきて見てをりしばし (p42)

 「父の死」の一連。近しい肉親の死にあうと、なんだか混乱し、あわただしくあれこれが進み、その中に淡々と黙々と流されていく。わざわざ枕元でわっと泣き伏したりはしない、というのが私の実感です。この歌の、しばしの俄雨があって、ふっとその流れの中のエアポケットみたいなゆるみを思って、ひかれた。いい雨だな。


  降りつづく雨のいちにち戸袋の蜂の巣に蜂はひつそりとゐて (p58)

 季節は秋の頃の歌のようで、秋の長雨のころだろうか。戸袋に蜂の巣があることをわかっていて、でも今は何もしていなくて、蜂も自分もひっそりと雨の中にふりこめられている静けさを思う。本当は蜂の巣は排除しなくてはというものだけれども、今等しく同じ家をわけあっているような感覚がして、好きだった。


  なぐり書きなれど書き継ぐ日記はもゆふべ殺しし蜘蛛の子のことも (p64)

 日記を書き続けていることは惰性のような所もあるのだろう。けれど、大事なことなのだと思う。蜘蛛の子を殺したということの、ひっかかり。そのことについて何を言うでもないのだけれども、日記に書いたこと。こうして歌になったこと。この微妙さがたまらなくて、いい。
 私も日記をざっくり書き続けている。素敵カワイイ手帳術みたいなことはできなくて、本当にただの殴り書きメモ。だけれども、なんでもない毎日、茫洋とした自分の一日一日を、なんとなくでもここに繋ぎとめているような気がする。と、自分自身のことをいろいろ思ってしまう歌たちなんだよなあ。


  ひとことで反転しうる間柄 ぐさりぐさりと霜柱踏んで (p72)

 それはどういう間柄なの。友達とか、血縁ではない家族ってことかなあというのは深読みすぎるか。関係というのは案外にもろかったりする。反転させるような「ひとこと」は言わずに、霜柱に八つ当たりして飲み込んだのだろうなと思う。「ぐさりぐさり」という感じ、すごく、わかる気がする。霜柱には悪いけど、寒い朝に踏み壊していくことができてよかった。


  一斉に旬がきたればたまはりて草食系の日々の食卓 (p110)

 これは春。で、私の個人的な思いなんだけれども、本当に、春の緑の野菜が、ことに豆が、まあもちろん旬というのはそういうものなんだけれども、義理家からも実家からも一斉に豆が届いて、緑ばかりを食べる時期がくる。有難く美味しいことなんだけれども、ほんとうに。「草食系の日々の食卓」に、春の陽や鮮やかな緑の豆の並ぶ食卓が目に浮かんで、ああ~そうだな~~~ってすごくわかると思った歌。「たまはりて」という思いが本当は大事ですね。今度の春にはその思いを私も持とう。


  濡れながら切りしひともとゆつさりと机上に置けばむらさきのあめ (p135)

 これは紫陽花の歌。紫陽花の花の大きさやつややかさがとても鮮やかで、重みや手触り、その時の空気感がとっても伝わってきて綺麗。


  蔦かづらからまる茶房におそき昼を姑と食みをり友だちみたいに (p149)

 姑さんと仲がよいようで、一緒に出掛けたりもしていて、「友だちみたいに」いる。こういうのは真似できないなあと読むのだけれども、でも、ただ無邪気に仲良しってわけでもないような淡い影ももっている感触が、「蔦かづらからまる茶房」にあると思うのは私の勝手な思い込みかもしれない。蔦のからむ素敵な喫茶店、って見るべきか。でもなんかどうしても、私の個人的感覚として、は、「友だちみたいに」は、単純に文字通りってわけではないでしょう、って、思う。まー、難しいよね。


  人はみな何をなさむと生を享く、な~んて。椿の厚葉が光る (p164)

 これはもう「な~んて。」に参りました。上句の仰々しさを軽やかにいなす感じがすごい素敵。思い悩み憂鬱なことはたぶんいっぱいあるしこれからもあるしもっと大変なことあるかもしれないけど、「な~んて。」って思っていこうって、思いました。


  花桃が咲き出してるよゆるゆると歩いてゆかうゆけるとこまで (p183)

 歌集の終りの一首。やさしくすべてを肯定するような、春の歌。自分のペースで自分の脚でゆけるとこまで歩いていこうって、思いました。
 上手さがとても自然でやさしくて、それに作者の視線や物事の捉え方や表現が絶妙で、こういう風になれたらなあと、憧れます。読んでよかった。

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『わが唯一の望み』 (徳高博子/角川書店)

『わが唯一の望み』 (徳高博子/角川書店)


 2018年3月20日刊。第四歌集。

 一読、花なら薔薇、旅はヴェネツィア、クリムトの絵、キリスト教との関わり。西洋風だなあという印象がいっそう強いように思いました。あとがきによるとタイトルの「わが唯一の望み」は、フランスにある6枚つづりのタピストリーの一枚のタイトルだそうです。「貴婦人と一角獣」、2013年か、日本にきて話題、だったのを覚えている。見にはいかなかったかなあ。作者の解釈では唯一の望みとは神の祝福と恵を受ける事なのではないか、というような。
 そういう願いを持った歌集ということなのだろう。

 日常の中で、旅の中で、様々な物事に、人に、出会い、見ている視線の伝わってくる歌で、作者の世界をページをめくるごとに一緒に見せてもらうような感じがした。祈り、願いの思いも伝わってくる。
 言葉が端正で、押しつけがましさがなくて、心地よく読ませてもらった。


 いくつか、好きな歌。

  油絵を背景から描く画家逝きて真中に白き虚遺されつ (p23)

 こんな風に目の当たりにする死の在り様があるのか、と、その絵の真ん中の空白がまざまざと見える気がした。主題として描かれるはずのものは何だったのだろう。静物なのか人物なのか。わからないけれども、残された空白は絵の描き手の死そのもになったんだなあという驚きがあった。


  はつはるの白き光につつまるる薔薇なることのえいゑんの檻 (p32)

 光に包まれて咲いている薔薇を永遠の檻、とする捉え方が素敵。薔薇として在ることは他の花ではないという、それは薔薇という檻に閉じ込められているという、耽美だなあ。この世に何かとして在るってことはその檻にはまっているってことですね。


  図書室では私語を慎めとこゑのする徐徐にちかづく其の声の闇 (p103)
  凶暴さを匿ししづかな図書館のちみまうりやうよねむりつづけよ (p103)

 この二首が並んでいるページ、妙に迫力があって惹かれました。図書室って私には良いイメージの場所なんだけれども、静かにしていなくちゃだめ、叱られる、という恐怖があるのか。キングの小説で読んだことあるような気がする、と連想してみたりして。闇とか魑魅魍魎とかのこわさがいい。


  聖人像は鳥に説教する姿聖人は聖人として立ち尽すのみ (p142)

 像なので、動かないものなのだけれど。鳥に延々と説教し続け立ち尽くし、その尊いような、不毛なような。聖人像を「立ち尽くすのみ」とした結句になんだかとても惹かれた。


  ひたすらに花を散らせし鳥群の去りてしづけき春雨の径 (p163)

 鳥が桜を花びらではなく花ごと散らしているのを見たことがあると思う。その情景を思った。花も鳥も雨もうつくしく、ただただ春の只中にいる感じがとても綺麗な歌で、好き。

 本の表紙が、タピストリーの絵柄で鮮やかな赤があり、タイトルや著者名は金、表紙のベースはグレイ?緑?落ち着いたもので、手にした時から、綺麗な本だなあと思って。読んでみても歌も綺麗で、よかった。キリスト教に関するようなこととか、絵のことも、私の教養が足りなさ過ぎてあまり読めてなくて申し訳ない。その一端に触れることができて、よかった。


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『揺れる水のカノン』 (金川宏/書肆侃侃房)

『揺れる水のカノン』 (金川宏/書肆侃侃房)


 2018年3月2日刊。
 30年ぶりの第三歌集だそうです。この方について何も存じ上げないのですが、不思議な、歌集、歌集なのだろうかこれは? と思いながらなんとか読みました。

 タイトルの「カノン」は音楽用語としてのってことでいいのかな。もうそんなところからわからないというか自信がない感じで読む。見開きで、歌一首、そして詩。この、詩? 詩は、ソネット形式って思っていいのかなあ。14行ではある、か。押韻とかはちょっとわからない。そこはこだわってるわけではない? 私がわからないだけか、わからない……。


  こよひ水辺にうすあをき卵孵りてひとといふひと殺めゆくうた (p76)

 この歌は素敵だなと思った、のだけれども、後に続く詩の方はうーんちょっとどうかなわかんないなと思って、その詩の方にひきつけてこの歌を読むのか、それはそれ、歌一首として読んでいいのか、詩との取り合わせとしての効果を見るのか、悩む。私は詩歌のセンスがないからな……。
 そしてこの作者の言葉選びの感覚があんまり私の好みとはあわないかなあと、読めば読むほど思う。言葉、呼びかけの大仰さとかかに私がのりきれない感じがする。詩的言語の異化みたいなことには、私はわかんないから単純に好みかどうかってしか見られないのだけれども、ん~~~好みではなかったな。
 そんなこんなで、これは、何? どういう本? と思いながら読んでみたのは面白かったです。私が読めなくてダメ人間だった。

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『アネモネ・雨滴』 (森島章人/短歌研究社)

『アネモネ・雨滴』 (森島章人/短歌研究社)


 2017年9月26日印刷発行。第二歌集。

 私はこの作者のことは何も知らなくて、けれどもとても美しい歌集だという気配に惹かれて手に入れました。

 歌は概念的なものが多く、「少年」のイメージが美しい。耽美、という言葉を久しぶりに実感する思いがした。
 歌の背景に作者像というのはあまり浮かばないのだけれども、猫が好きで猫といて、そして猫が亡くなったんだなというのは現実なのであろうと思う。猫。私も猫が大好きで、嗚呼、と思う。猫、至高の生き物だものね。

 1999年から2014年までの歌から三百三十首を収録した、とあとがきにある。期間は長いけれども随分厳選してなのか、歌数は多くない。その余裕というか、余白にうっとりひきこまれて読む、綺麗な本だった。本のサイズはふつうよりちょっと大きい中に、一ページ二首というのが典雅である。その歌のゆったりとしたうつくしさも感じる。

どの歌も完成度は最高で、好きな歌、として付箋つけるのは難しいというか、選べないほどどれも素敵だ……ってなってしまう。うーん。どうなのか。選べない。猫の歌は、好きだから好きっていいたくなるけど、猫好きだから、わかる~って気がするけどわかってない気もするし、そしてやっぱりうちの猫、というものだと思うので、猫の歌はこの人のものだなあと思ってしまう。猫はよいものですから。

 「少年」という言葉の、概念の、持ち方が、この作者と私は違うんだろうなあという気もした。少年、ことに美少年だろうなって思うのすごくすごく素敵なんだけれども、でも私の思う所とは多分違うんだろうなと思った。すごくすごく素敵だけど私もただならぬ思い入れみたいなのがあるんだなあと、改めて自分のことを思ったりしました。少年、いいよね少年。いいよね、すごくいいよね、と思う歌が並ぶのだけれども、なんか、選べない。難しかった。


 それでもいくつか、好きな歌。


  くちびるは何と婚姻交すべきなべての言葉少年拒む (p17)

  呼び声に振り向けるとき少年の姿はなやし桜狩らるる (p21)

 絶対美少年じゃんとしか思えない。桜に攫われる系の少年の儚さ、美しさ、エロス。言葉を拒み、姿を消してしまう存在、というか、存在の儚さとしての少年だなあ。


  誰にも似ない少年が来る銃よりも偽薔薇の死をたづさへて来る (p118)

  金輪際椿に触れぬ触れさせぬ ゐるはずのない神を殺しに (p119)

  声もらすのにふさはしき口 千年をもてあそばるる少年、弥勒よ (p120)

 上三首はうまく意味がとれないと思いつつ、すごく惹かれる言葉たちで付箋をつけた。銃、薔薇、しかも偽薔薇っていう重たさがいい。次は椿。赤い椿だと思う。早春の冷たい、緑の葉はあれどもまだ寒々しい景色の中の鮮やかな椿の赤を思う。そして「ゐるはずのない神」を殺すという、この過剰さがいい。好き。やられる。
 弥勒菩薩の半跏思惟椎像を思い浮かべるわけですが。あのほっそりした指とか柔らかなはかなげな姿とか。それを少年と見立てて千年もてあそばれるという、声もらすっていう、あああ~なんて、エロス、ごめんなさいって思いながらもえころげてしまいました。なんという耽美。


  さてここにきみの片腕ひつそりと置かれし外は白き淡雪 (p153)

 川端康成の『片腕』を連想。あったよね? 男が若い娘の片腕をかりて一緒に寝たりするあれ。ひっそりとした片腕。白い淡雪。清楚な静謐な中にエロス。フェティッシュでとてもよい。


  骨傷む傘の柄握りしめきみは昨日の雨の中から来たのか (p161 ルビ「傷 いた」、「昨日 きのふ」)

 歪んだ傘を握りしめて、そんな傘だから多分雨に濡れて、きみはいる。「骨傷む」は傘のことだけれどもきみのことだよね。雨がやんだばかりできみはまだ濡れている感じ、と私は一読イメージしたけれども、「昨日の雨」をどうとるか。ほんとはもう雨はやんでいて、傷んだ傘はたたんで携えているってことか、な。んー。ともあれなんだかとても痛々しいきみがいて、そのきみはきっと美少年で、そのきみを前にして作中主体は何にもできずにいる感じが、とても、ドキドキします。好き。


  遠くからやつてくるものあなたへとページをひらく あなたをひらく (p183)

 これもちゃんと読めない感じがする。遠くからやってくるもの、が、あなたにページを開いて見せて、そのものが、それからあなたをひらく、というふうに互いにひらきあってる感じと思っていいのかなあ。わからない。単純に見れば「もの」は本で、過去なり場所なりどこかを描く物語なり思想なりの本、で、それを読んだあなたの世界がひらかれるような、感じ、と、んーと、理屈になるかなあ。本のようなものをイメージし、けれどそれはものじゃなくて人の喩かな。ひらきあう、この、歌集そのものであり、本の世界、書き手と読者、みたいにも言えるかも。わかんないけど、この互いをひらいてみせる感じがとってもエロスでいいと思って惹かれた。本のイメージも好きで。この歌集の最後の一首です。

 全然私が読めてなくてダメだな。とてもうつくしいと思ったんだけれど、私がついていけてないんだろう。でも読んでよかったです。

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『鉄の蜜蜂』 (岡井隆/角川書店)

『鉄の蜜蜂』 (岡井隆/角川書店)


 2018年1月25日初版発行。34番目の歌集となります、とのこと。(あとがき)
 初出は「未来」と、他いろいろの雑誌や新聞から。初出不詳の、「大震災以後の歌二十首」もあり。これは3.11の、わりと直後あたりで新聞とかに出してたんじゃないかなあ、と、思うけど違うかも。もう自分の記憶は一切あてにならない……。

 2018年で満九十歳になります(あとがき)とのことで、その前2015年~2017年ごろの歌をまとめたもの、と。
 それはやはり圧倒的に老いの気配がある。膨大な過去の記憶。思い出、という甘さはあまり感じない。先立って亡くなる友人知人。自分自身の健康状態。勿論医師であった著者は病のこと死のことを知りながら、自分の体験としての老いや病はそれぞれに初めての事なわけで、ゆっくり体をいたわりながらという様子がうかがえる。だけれども、それが憐憫っていう感じはしない。

 自分の心、自分の体、そういうものを自分の中からとり出して歌につくる距離感の絶妙さ。もう息をするように歌をよめるのではないかなあと想像するけれども、そうでもなかったりもするんだろう、か。多分。
 それでも歌の韻律が作者の呼吸のリズムになっているように感じる。とても自然に調べに添う。けれどとてつもなくテクニックが身についているどころじゃないほどに、歌が自分のものなんだろうな。自分のものであり自分じゃないみたいな冷静さもある。こういう呼吸みたいなものがすうっと言葉で、文字で、伝わってくる。優しい柔らかさがあるけれども、人を寄せ付けない毅然とした孤独みたいなのもあって、畏れるしかない。

 私がもう岡井隆大好きすぎて全然冷静に読めないからなあ。わかってないんだろうなあ。未来で読んできているものも、やはり歌集という一冊で手にするとまたきりりとした姿が一層鮮やかに見える。この歌集がまた、装丁というか、表紙や紙の感触まで凝ってて独特で、あ~汚したくないという真っ黒さが素敵でかっこいいんだよー。
 めくってもめくってもうつくしい。
 短歌ってこんなにも自由で豊かでやわらかくも厳しくもあると思い知らされる。
 かっこいいんだよー。

 日々の出来事、の中に、皇居に招かれるとか皇室の方々とのことがあったり、受勲があったりで、こ、この、大歌人っ……という圧倒してくれるの、凄い。そういうこと事を大事にしているんだなあと思う。けれど仰々しくもなくそれもまた日々の出来事、というフラットさがあって、巨大さを思う。こわい。すごい。


 いくつか、好きな歌。ってもう全部すごく好き好きすきでしかないんだけれども~。


  ぼくの心と同じ水位の池ありて睡蓮の花が咲いたみたいだ (p23)

 岡井先生が「ぼく」と自分のことを言う声や話し方が最高に大好きです。この歌も本当に柔らかく優しく綺麗に歌われていて、けれど何なのかはわかんない。けれど、睡蓮の咲くうつくしさと、こころの水位という、どこか冷えた寂しさと、感じる。好き。


  樹は風の強い日に切れつていふぢやない 旧友長谷川を見捨てたあの日 (p32)

 「亡友の記憶に寄せて」という一連。樹、というのは人で、ぼくであり君である感じかな。「見捨てた」という強い言葉を選んで記す、作者の心を思う。遠い過去の記憶であるだろうけれども、今も、樹をを切ったばかりの匂いたつような残酷で鮮やかな記憶として抱えているんだろう。ぞくぞくくるね。亡き友を思う時こういう記憶があってこういう歌に作るんだ。


  ポストまで歩数を声にとなへつつさくらも終る痛みも終れ (p43)

 痛みを抱えながら、それでもゆっくりポストまで歩く。声にとなえるのは自分を励ますためとか痛みを紛らわせるため、か、単純にいつもの習慣なのか。村上春樹をよく読んでいるらしいので、その影響とか? なんて思ったりもした。何もかもを執拗に数えるとかあったよね。風の歌だっけ。さくらと痛みと、うつくしい切ない取り合わせ。岡井先生んちにはさぞやたっぷり郵便物が届くだろうなあ。自分自身でもいろいろと出しているのかなあ。ポスト、郵便というものが持つ実感があると思う。世界への扉というイメージもあると思う。郵便を出して受け取って飛び回ることばと、もうあまり動けない我と。痛み、終わって欲しい……。


  詩はつねに誰かと婚ひながら成る、誰つて、そりやああなたぢやないが。 (p50、ルビ「婚 まぐは」)

 詩にこんなにエロスなイメージもって描かれているのぐっとくる~。きゃ~。で、あなたではないよ、ってふっとかわされるのなー。もえころげる。好き。


  家中にいただきし花が咲きつづくわたしの過去が咲いてゐるんだ (p63)

 「授賞式以後の私」。2016年文化功労者に選出、という受賞以後ということでしょう。家中に花が満ち、褒められたとはいえそれは「過去」というクールさ。勿論嬉しく思っておられることはわかる。けど、岡井隆にとって「過去」って、今も生々しく血を流し悪夢にさいなまれたりしているのではないかと思ってしまうので、なかなか複雑な思いがする。けれどその次の歌は「過去と共に明日(ルビ:あした)が一つづつ咲いて家内(ルビ:いへぬち)を明るく照らして下さい」というもので、花が咲き続くことをやっぱり希望のように捉えているのかなあ。過去も、明日も、花に彩られますように。


  女性だから、ゆつくりと羽ばたいて去る。ぼくを漆黒の視野に収めて (p82)

 「女性だから」という捉え方がぐっとくる。漆黒の視野に収められて去られていくんだぼくは、女性には。いう思いにぐっとくる。そういうものなんですか。黒い瞳に見つめられて、という感じかなあ。けれど作者が漆黒のなかに塗り込められて窒息しそうな感じがする。素敵だ。


  日に一度朝があるつていふ嘘をたのしみながら花に挨拶 (p83)

 朝があるのは嘘じゃないでしょう、と思うのに、嘘なのかなと不安になる。嘘だ、としていながら、たのしんで花に挨拶なんかしてる歌で、軽やかさが楽しい。


  今日もまたぱらぱらつと終局は来む鉄の蜜蜂にとり囲まれて (p88)

 歌集タイトルにもなっている「鉄の蜜蜂」。すごく惹かれる言葉。それって何? というのはわからないんだけれども、すごく印象に残る言葉。蜜蜂は益虫だけれども、針を持つ虫でちょっと怖いものでもある。鉄の、だから、より怖いものみたいな気がする。SFめいても思えるし、固く冷たい不吉のようにも思える。「終局」だものなあ。初出は未来の2017年8月号。だから多分書いたのは2017年の6月ごろ、だろう、多分。この一連の一首目には「水無月の終りが近い」だからまあ、6月なのでしょう。んー。


  一輪の傘が咲くとき 不思議だなあ 雨の方から降つてくるんだ (p158)

 こういう口調でつくる歌あるよね、この作者の文体だなあと思う。あ、雨かなとぽつぽつ雫を感じて、傘を開くと、それまでよりもっともっと雨を感じる感じ、だと思う。「雨の方から降つてくるんだ」という表現が不思議だなあという感じすごくするし、言われるとそうだなあと思うし、とても可愛い。こういう優しい歌もとても好きです。


  美しい言葉に飽いた青年が汀に貝を殺めると聞く (p193 ルビ「汀 なぎさ」、「殺 あや」

 これも私にはわかんないんだけれども、すごく、綺麗な絵が見えるようでとても好きです。この青年も美青年に違いないって思うね。詩人が漁師にでもなったのか、どうか、わからないけど。美しい言葉に飽いた彼をうつくしいことばで讃えるのって残酷で美しいな。


 と、全然読めてないじゃん~自分~と情けなくなるけれども、わかった、ってことじゃなくてもこんなにも短歌って素敵とうっとりさせてくれる。作者と合わせて読んでしまう。好きなので仕方ない。平成が終りますね。今上陛下のご退位がこの春、かあ。岡井先生この頃の体調はいかがでしょうか。元気になって欲しい。好きです。

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『無伴奏』 (岡田幸生/ずっと三時)

『無伴奏』 (岡田幸生/ずっと三時)


 私家版、というやつかな。
 1996年の句集『無伴奏』に、さらに拾遺をつけての2015年刊の一冊。360句。

 句集ですが、随句、というもののようです。「序 北田傀子」を読むと、ひらめきの韻律の句で、17音とか季語にこだわらないって感じかなあと思う。山頭火、放哉という感じか、と、思うけど、多分私はあんまりわかってなくて、なんとなくなるほど、と思う。

 文庫サイズで手に馴染む本で、淡々と並ぶ句は一見やさしい。ひらめき、ね、と思う。難しい言葉はあまりない。
 けれど、俳句の17音では読めないし、季節ごとに並んでいるけどどれが季語で、というのを気にするでもない感じ。すいすいさくさく読めるけれども、読めているのかどうか、自分で不安になる~。
 ひらめき、ね。
 考えるな、感じろ、みたいな?
 
 確かに詩だ、という気はする。この言葉選び、言葉の感触は凄い。ような気がする。気がするって弱気になっちゃう、読めてない気がする自分が~情けないやね。
 でもこうだーっと読み込むと、「――だ」という言いきりの句が鼻についたりして、私としてはあんまり好きだ素敵だとはならなかった。いやこの語尾の畳みかけの並びなんかもあえて、と楽しむべきなのだろうか。うーん。

 凄く、見る、見ている、作者の視線のあり方を感じた。見てる。対象というか、目の前にあるものというか。女とかを。見てる。視線のじっ、とした感じを思った。ちょっと怖いようなくらいに思った。見るって怖い。そしてこうして作品として投げ出されているの怖いなあ。
 かなり長く手近に置いていて、何度もパラパラした本だった。読んでも読んでも私には読めないのでは、と、不安になったなー。ポストカードに一句ずつ、みたいな感じで読みたいかもしれない。


 いくつか、好きなもの。

  春の陽を吸って吐いた

 「吐いた」という結句に惹かれる。春の陽、というあかるい柔らかいやさしい風情の中の吐く、という強さ。別に息を吸ってはいて~って思えば何でもない事なんだけれども、「吐いた」というのはもっと強く嘔吐のイメージを私は持つ。春は好きな季節なんだけどね。吐く、ってのもわかる。ような気がする。

  そんな声で黒猫をふりむかせた

 どんな声ですか、とそそられる句です。黒猫を振り向かせるんだものね。セクシーに決まってる。と、私は思うの。読む人それぞれの推しの声を思い浮かべるよね。たまらん。「そんな声」という思わせぶりと、「黒猫」の鮮やかさが効いてると思う。凄くいい。セクシー。

  笑顔を残してあなたがいない

 あなたがいないのにあなたの笑顔はあるんだねえ。切ない。

  春の時計の何時でもない

 時計であれば、それは、何時かを指してはいるでしょう、と思うけれども、春の時計だから、指している時が溶けてゆくようなぬるさというか眠たさというか、なのか。もっと概念的に春という茫洋とした時間の塊みたいなものなのかなあ。何時でもないという自由さのような感じが心地よい。春だし。

  みぞれのぬれたところが蜜だよ

 この句は夏の句の並びの中にあったので、かき氷の感じか、と思う。「ぬれたところが蜜だよ」ってめっちゃえろす~~と思ってもえてしまった。

  誕生日の切符も自動改札に飲まれる

 誕生日の日付が記されている切符は自分には特別なものだけれども、自動改札には勿論当然全く何一つ特別ではない、という。ほんの一瞬の微かな、あ……という感慨。切符ってもう最近あまり手にしないけれども(スイカとかパスモ使うのがほとんど)地方とか旅とか、何かしらやはり切符を持つことはあって、自分の何かしらちょっとした特別が、あっけなくそっけなく、何でもなくなる、この、社会に生きている感じを思いました。

  あまいもので癒えるほどの愁いだったか

 そうだったんだな、って。可愛い。甘いもの、いいよね。あまいもので癒えるほどの愁いでいいよね。「愁いだったか」と自問している、自分で腑に落ちないけど甘いものおいしくてよかった、みたいな憮然とした感じがとても可愛い句。

  雪ひらがなでふってきた

 雪の振り方がひらがな、っていう表現、とても好きだった。

  指で食べて指で洗った

 これもさー、私はめちゃめちゃえろす~~~もえもえ~~と思って読んでしまった。「指」というものの持つ力でしょうか。私の問題か。けど、荒々しいような繊細なような、この指の、食べる、そして洗う、という、何を、とは書かれていなくて読者に委ねられているわけで、それならば私はエロシーンとして読みます好きです。

  窓あけはなって木犀の雨

 木犀の香りとか風ではなくて「雨」であるところに惹かれました。金木犀であってほしい。濡れたオレンジ色を思った。

 好き勝手読んで、というか、読めなくてごめんなのですが、面白かったです。

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2018年まとめ

2018年、まとめ


 この日記で数えて見た所、去年、映画館へ見に行った映画、69本、読んだ本、46冊でした。

 去年は本を読むように復活した気分だったけれども、改めて振り返るとあんまり沢山読んでないのね、と、反省。
 けどもまあ、別に読む冊数増やしたいわけでもなく、読みたいなと思ったものを淡々と読んでいきたい。好きな物だけ読めばいーじゃん。面白かった! と思える本を読んだなという気持ちがあるので、満足です。
あと歌集もせっかく手元にありながら読めていないのが沢山あるので、今月また頑張って読むつもりです。

 映画は、映画館へ複数回見に行ったものがあるなあ、君の名前とかです。去年の夏はすっかり北イタリアに心を奪われていた……。そして12月に「ゴッズ・オウン・カントリー」見られたのもよかった。去年この二つを見ることが出来て、いろいろ思う事ができてよかったな。

 映画、テレビとか配信で見てるのも沢山なんだけれども、(円盤買ったままのとか)それもメモったほうがいいのかなあ。どんどん記憶力がなくなってるし。ちょっと悩む。
 ともあれ、今年も、本も映画もたっぷり楽しみたい。好きなものを好きに愛でたい。良い一年でありますように。

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