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『花高野』(道浦母都子/角川書店)


『花高野』(道浦母都子/角川書店)


2017年9月刊。第九歌集。

これは等身大に近い歌集なのだと思う。基本的に「私」の歌が並ぶ。
家族は亡くなっている。自身に病がある。旅先でもその地の哀しみを思う。
過去があり今がある。
寂しさや苦しさがある。けれど、それは全て歌になってこの歌集に編まれて
いる。歌として書きとめるのは「私」のことを私から離して描くことだと
思う。それがとても、すごくて、こんなに等身大そのままのようだけど、
こうして言葉にあらわしている、自分への距離感というのがあって、歌は
美しくて。

あとがきにあるように「久々の政治の季節を含んだ歌集でもある」。
私個人的には、政治の季節というものに馴染めないのだけれども、こうして
季節の移ろいや個人の苦しみ日々の暮らしの中に政治の季節を含むのは、
やっぱそれは、さすが道浦さんということなのかなあ。それが歌になるん
だよなあ。それが等身大と感じさせられるんだもんなあ。凄いです。

いくつか、好きな歌。


  鏡台の中に雪降る気配してしばし紅筆とどめて居りつ (p17)

絵のように、でも決して絵では絵が消えない美しい歌。鏡の中の雪の気配。
静謐な空気かん。「紅筆」という道具がとても素敵。私はもう紅筆で口紅を
塗るような化粧を全然しないのだけれども、こういう佇まいにはとても
憧れる。うっとりした。


  しんなりと首垂れているダチュラ もうわたくしはうなだれないの (p37)

  自らの歌読み返し疲れ果つうたは私の影武者である (p43)

  哀しみはからだとこころの折り合いをつける間もなく差し違うこと (p59)

「ダチュラ」の名前のインパクトがある。ちゃんと思い出せなくてぐぐった
けど。チョウセンアサガオね。有毒だって。そういう花と対比して自分が
あること。そして私はもううながだれない、という宣言、でも全部平仮名。
すごく引き裂かれている感じがする。
「影武者」というのも、私であって私ではない、それが自分の歌、で。
影武者って、つまり、命を狙われてるような時にたてるものなのでは、と
思う。次の「差し違うこと」というのも。そういう苦しみとか不安とか覚悟
みたいな所にいる感じが伝わってきて美しかった。


  「シニア左翼」と呼ばれるわでも揺り椅子にくつろぐわれもいずれも私 (p83)

『シニア左翼とは何か』という2016年に出た新書があるようで、それを
お読みになったんですね。(この前の一首にある)その本に実際名前が
出てたのかどうかは知らないですが、「シニア左翼」という自覚を気負いなく
受け止めている感じが大人だ。とはいえ何か思う事もあっての一首かなあ。
そして行動する人だもんなあ。


  水の仙人 水仙一束活けられて湖畔思わす調剤薬局 (p104)

  あんなにも恨んでいたのに昔の人となりたる君は寒の水仙 (p159)

水仙の清らかさ、香、すがすがしさを思う。「調剤薬局」という場所が
湖畔になる、このイメージの展開、腑に落ちる。
「昔の人」になれば恨みある人も水仙の清らかさに思える、という、その、
それはどれほどの時間を経てのことなのだろう。たっぷりとした時間を
感じた。

  スズメ蜂のむくろゆっくり拾い上ぐ完全な死はあたたかきかな (p184)

これも。スズメバチの脅威も死してしまえばあたたかいものになる。拾い
上げるのも怖いけどなあと思うけれど、これは実景、んー実景でもあるの
かもしれないけれど、もっと象徴的な歌かな。何か許しているようだ。


  書き終えて宛名の主を浮かべつつ切手選ぶはひかるよろこび (p228)

これはすなおな喜びの歌と思う。切手という小さなものだけれども、綺麗な
可愛いものが沢山あって、それを相手を思いながら選ぶというのはとても
素敵なことだ。手紙の内容もいいものなのだろう。小さな喜びが、たくさん
ありますように。

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