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池田はるみ『正座』を読む会

池田はるみ『正座』を読む会

9月6日(火)にあったやつに行ってきた。
個人的覚書メモ。
(私個人の主観のメモなので正確なものではないです。パネリストの発表等、
私が勝手な思い込みで間違い勘違いで聞いているかもしれません)


パネリスト:大島史洋、花山多佳子、服部真里子

最初は大島さんから。
15首引用。僕がいいと思った歌です、とのこと。
池田さんらしい、ということで自然体の中のユーモアのある歌等。
ただその「らしい」というのは難しいところで、面白がって、面白がらせよう
としてやりすぎになってしまうとつまらない。作りすぎ、と感じてしまう。
大鵬の一連はよかったなあ。
擬態語の面白い使い方のこと。それもやりすぎになってしまうかどうか、微妙で
難しいところ。

ですよね。これはよい、とするか、やりすぎだなあと引くか、その塩梅って
読み手の好みってことに左右されちゃうんじゃないかなあ。難しい。
私は池田さんの歌好きで受け入れる幅が大きいほうかな。

次は花山さん。
池田さんと生年月日、誕生日まで同じという同世代だそうです。
言説的なもの言いの歌への疑問。言葉遣いへの疑問。
同世代、といえばわかりあいやすい、という安直さは全くなくて、ある程度
重なり合ってわかる気がするけれども、でもなおさらすごく違うと感じると。
バックボーンの違い、他者性を感じると。

わからない、というところのお話興味深かった。好きな歌のこと、文体のこと、
この歌集からだけでなくこれまでの歌からの流れも面白かった。

次は服部さん。
沢山の歌をひいて歌そのものに即して読む感じ。言葉選び、字数を使って
ゆったり感のある歌を「空気を入れる、空気を描く」とまとめているのが
なんだか腑に落ちる感じ。池田さんの歌の呼吸というか、池田さんの声が
してくるようなこういう歌私も好きなので。
「生き物として対等」とまとめられていたのもわかる。孫、赤子にも、犬とか
すずめとか小さな生き物にも、対等な視線であるような歌。
幻想的な歌の異様性。日常的な歌が多い中での際立ちなど。

地震や原発の歌をレトリックとして捉えるのは無理があるのでは、という
大島さんの意見などもあり。
歌そのものテキストの背後に何をどこまで読み取るか、って、やはり読み手
それぞれの問題なんだなあと思う。


それから会場から。
40名あまり、みんなそれぞれに読みや感想や意見交換などなど。
亀さんのシリーズが私はかなり好きなんだけど、池田さんのご近所さんからは
近所に亀のいる池があって、みたいなお話があったり。亀の擬人化、と見るか、
どうか。
私はリアル亀だとはまったく思ってなかったのだけども、でも、そういうのも
面白かった。もちろん歌そのものが、おとぎ話めいていて、人間であり亀であり
という膨らみの余地のある世界。
ほんとに会場みんなから意見が出て、いろんな、あらゆる角度から読む感じが
して、参加しててとても面白い会だった。

懇親会までお邪魔させてもらって、美味しく飲んで食べて、楽しかった。
ありがとうございました。

いくつか、私が好きな歌。


  あんたはなあどうも甘いと言はれてる烈夏の下を通つてゐたが

  けふ我はからだに沼をかかへこみうつぶせの背に蛍をとばす

  あかんでの「で」の抑制がうつたうしいあほなことしたらあかんでの「で」

  赤ちやんは福の神なりわれに来てむーんと重いちひさなからだ

  さびしくても大丈夫だよといふやうに亀さんことりと動きはじめぬ

  亀さんとゐればときをり寄せてくるちひさな風に時間がうごく

  カウンターに呑みつつ並びゐし人ら ゆふぐれはみな話があつて


やさしくてほんのりあたたかくてきちんと静かな距離感があって、好きです。
『正座』というタイトルを見た時、あ、なるほど、という納得があった。
池田さんは厳しい正座を強いるのではなくて、なんの無理なく正座できる
人だなあと思う。ゆったりしてるけど強い芯がある。さらりとしている。
面白いなあ。


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