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田丸まひる歌集『硝子のボレット』批評会

田丸まひる歌集『硝子のボレット』批評会

昨日の午後、中野サンプラザ行ってきました。

 司会 荻原裕幸 パネリスト 山崎聡子、吉田恭大、平岡直子、斉藤斎藤

私個人的主観的メモ感想自分のための覚書で正確な記録ではないです。
私の思い込み勘違いで何か間違いあるかもしれないです。

最初は山崎聡子さん。
短歌に浸っていない人にも広がる歌集なのではないか。作中主体の「私」が
今を生きる女の人の程よい通俗性があってみんなに受け入れられるのでは。
単なる男と女の枠組みの中で語ってはつまらない。あなたとわたしの共犯関係。
ふたりだけのルールで遊んでいるような、内側だけの共犯関係のような。
受動と能動。能動性を発揮しようとするときの暴力性。性愛の暴力性。
秀歌としてすんなり思える歌もあるが、この歌集の軸ではない。

二番目、吉田恭大さん。
舞台における主導権争い、「する」主体は誰なのか。
足の歌の多さ。
他者との行為を通じてひらく、さらしている裸体。熱量の高い身体。
職場詠の危うさ。「アミ」の目立ち方は、歌集の一貫性がブレてしまうのでは
ないか。

三番目、平岡直子さん。
歌集の特徴が出ている歌と、いいなと思う歌がずれている。
性愛と職場詠。過剰で暴力的な性愛はエロくない。あまり幸せな関係でなさそう
でエロくない。女性として消費されることへの抗い。でありながらも、一首一首
にサービス精神があり予定調和になってしまうことも。味方かと思っていたら
背中から撃たれたような。
作中主体は受け身。男性は別の生き物。患者とは同化しそう。
父親と娘、として見るとすんなり読めるところもあり。
この歌集のほんとの作中主体は女医ではなく患者「アミ」なのではないか。

山崎さんも平岡さんも桜庭一樹の名前を挙げててなるほどと納得感ありました。

四番目、斉藤斎藤さん。
わりと冷静。ほんとにそう思っているとは思えない恋人との歌。暴力的、情念、
と見るのは誤読だと思う。男、あなた、はわりとどうでもいい。
穂村さんの歌の本歌取りをしていたり。主語が混ざる歌。本をつきやぶる。
ねじれた文体をもっての抗い。こういう抗い方はあるんじゃないか。

五番目、荻原裕幸さん。
冷静な言葉。文体の過剰性。意味としては隙だらけでも迫力のある言葉。
現代口語のトップランナー。

ざっくり聞いた感じ、山崎さん、平岡さんは、この歌集の問題を相当に自分の
こと、問題、として強く意識があるのではないかと思った。
斎藤斎藤さん、荻原さんはこの歌集のこの感じとは距離があるんだろうなあ、
と思った。
単純に性差とか世代差と言ってしまってはなんだけど。山崎さんが最初に
おっしゃったように、広く多くの人に受け入れられる、共感を呼ぶ感じに
自覚的に作られている歌、歌集だと思うのだけれど、共感から遠い人というのは
当然いて、これはいい歌集だとかいい歌だ、とか評価の方に重きを置く距離感
だと、なんかそうなっちゃうのかなあ。

司会がパネリストの話のかみ合わなさを整理しようとしてくれてたけど、そこは
もうちょっと当事者同士で沈黙しながらも話をさせて聞かせてーと思ったけども。
まあ時間配分もあるしで、難しいかな。

終りの頃に、加藤治郎さんの会場からの発言があって、この新鋭短歌のシリーズ、
この歌集はある程度マーケティングを考えていて、どういう読者に届けたいか、
意図して作られているんだなと理解した。それは当然ありうる判断で、その中で
著者がせめぎあったこともあるんだろうけど、この意図が見える、見えすぎる、
あるいはうまくいってる、その辺のバランスが完全に成功、ってまではいって
ないんだろう、なー、と、思う。でもその成功は至難の業で、これだけ議論が出て
理解、不理解が出て、たぶん参加者全員が、自分なりに、いいとかよくないとか
考えられて、面白い歌集だし面白い批評会だった。
共感を得てふぁぼを集めればいいってもんでもないだろうけど。

消費、というワードでもあれこれがあって、女性性を消費される、させてやる、
している、歌を消費する、なんかこう、いろいろ。いろいろ大変。
加藤さんが消費されるというのは読者を得るということでもあって、と発言
したのがさすがのポジティブだった。ほんとさすが。治郎さん強いよなあ。
まあ消費、っていう言い方の使い方のなんだかんだがあって一概には言えない
感じが難しいというかメンドクサイというか。

私はこの歌集はとても読み易いし差し出しているサービスも凄いと思う。
ただ個人的には性愛というところを扱っての歌のやり方は、私個人としては
もういいや、という感じがあるので、共感してふぁぼしてっていう風には
なれない。
口語のトップランナーと荻原さんが書いていたのはとても納得で、もう本当に、
本当に言葉を自在に生み出してすごく上手い、と思う。
今も、これからの歌も、楽しみにしています。批評会参加してよかった。

あと私が好きだった歌いくつか。

  けれどまた笑ってほしい今朝虹が出ていたことを告げる回診

  いいよ 息をしていていいよ 真夏にもあなたをつつむ雪ふらせたい

  心などないのに(鳥は鳥かごに)(記憶は脳に)こころぼそいね

  ずっととけない氷がほしい あなたとはほんとうに家族になりたかったんだよ

  ひかりの深さをきみは知らないどれくらいおかされたって体じゃないか

  きみの目にすみれの匂う墓地がある ひとを内側から刺したいよ

    それでも、
  愛してるどんな明日でも生き残るために硝子の弾丸(ボレット)を撃つ

                        *(ボレット)はルビ
(P23、P38、P100、P103、P111、P115、P130)

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映画「追憶と、踊りながら」

*結末まで触れています。


映画「追憶と、踊りながら」


カンボジア系中国人のジュンはロンドンの介護施設に入っている。英語がわからない
彼女は一人息子のカイの面会時間だけが楽しみだった。本当は施設より息子と
暮らすことを願っている。
だがカイは同性の恋人リチャードと暮らしている。母にはカミングアウトできない。
カイは突然、事故で亡くなってしまった。
ジュンのところへ訪ねてきたリチャード。北京語がわかる友達をつれてきて、
コミュニケーションをとろうとした。

大事な大事な一人息子に頼り切った母親。頑なで愚かな母親、ではあるけど、
ことさら格別に悪い親、っていうわけでもないんだよなあ。英語がわからない、
ってこれまではどうしていたんだろう。中国人社会にいたら英国でも大丈夫
だったのかなあ。
軽めの痴呆が出始めて、って感じだろうか。一人でおいとけない、って感じかな。
実に辛い。
カンボジア系中国人、て。カンボジアって大変だったろうとうっすら想像する。
たぶん父親は早くに亡くなってる、んだろうなあ。頼りにするのは息子だけ、
っていうその感じはすごくわかる。
でも息子はゲイで、恋人と愛し合ってて、でも友達として紹介したけどなんか
母親には毛嫌いされちゃってる。何が気に入らなかったんだろう。なんかたぶん
中国人じゃないっていうだけで毛嫌いしたんだろーなー。リチャードは物凄く
いい青年なのに。

突然のカイの死を、受け入れがたく辛く、ジュンもリチャードもカイの幻を
思って悲しみにくれている。
リチャードは、カイにかわってジュンの面倒をみようとするけれども、ジュン
のほうは受け入れない。
ジュンはアランというボーイフレンドが出来ているんだけど、よかれと思って
二人の通訳を頼んだけれども、話が通じるようになったけれど結局違いすぎる、
といってジュンはアランも受け入れられない。

言葉の通じない異国で一人になって老いてゆくジュン。その孤独。

この映画は、新鋭監督、ホン・カウの長編デビュー作だそうで。自身の母への
思いを投影して作った、そうです。
母と息子。
異文化との衝突。
世代の差。
大切なものを亡くしたあと、残されたものはどう生きるか。
ゲイのカミングアウト。
いろいろな要素が丁寧に、繊細に描かれていた。
86分。低予算、らしいけど、本当に素晴らしくてうつくしくて、いい映画を
見たなあという満足いっぱい。

ベン・ウィショー主演。カイを演じているのは新人俳優らしい。アンドリュー・
レオンだって。彼も、出てきた瞬間、あ、かっこいい、って思った。キアヌに
似た感じがある。
この二人がカップルなわけでー。も~~~すっごいかっこいい可愛いカップルで
胸きゅんすぎてしぬかと思った。
リチャードはカイに、母親に話したほうがいい、と進めていて、でもカイは
そう簡単にいかないって葛藤していて。
二人がベッドで語り合うシーンが何度かあったんだけど、それがもう~っ
すっごく綺麗で可愛くて切なくて。
リチャードがカイを見つめるのがたまらないの。綺麗で。恋してて。
らぶいちゃシーンといってもくっついてキスするくらい。だけどだけどだけど
それがもうすっごいときめく。
はだかの胸に触りながら笑いあったり。
カイが母親に話すと思うと心臓がドキドキするみたいに言いながら、ほら、って
リチャードの足を持って、足の裏を裸の胸にあてるの。なにそのシーン!!!
衝撃的にきれいでやられた。私の心臓がどきどきしすぎて潰れちゃうでしょ。
二人とも、ほっそりしてて、きれいでハンサムで優しそうで。
ラスト近く、踊る幻想のシーンがあるんだけど、もう~~抱き合う二人ともが
細くて~。ときめきすぎて辛かった。
ひょろっと細長い二人は、普通に今の若者って感じなんだけど、普通に、すごく
普通に恋する二人で、でも普通じゃありえない素敵かっこよさで。最高だった。

自分だって恋人を失った深い深い悲しみの中なのに、ジュンを気遣って、
自分が恋人っていうことを隠して。一緒にカイを思って泣いてしまったり、
ジュンの助けになりたいって願ったり。
ほんっっっとーに繊細でうつくしい青年だった。
可愛い。ほんと可愛いベン・ウィショーくん。最高。

通訳を頼む彼女と、いい友達になった感じも最高だった。いいなーゲイの友達。
料理を作ったり。
ベンくんの魅力堪能しました。ほんといい映画見た。大好き。

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映画「ギリシャに消えた嘘」

*結末まで触れています。


映画「ギリシャに消えた嘘」

舞台は1962年。ギリシャ。
観光ガイドをしているライダル。アメリカ人で、父と折り合いが悪く、ついに父の
葬儀にも帰らなかった青年。裕福そうな観光客と見えたチェスターとコレットと
いう夫婦に目をつけ、ガイドをしていつものようにちょっとした誤魔化しで手数料
を儲けた。
共に食事を楽しんだあと、コレットの忘れものに気づいてホテルへ届けに行く。
チェスターは実はアメリカからの逃亡者で、追手を弾みで死亡させてしまっていた。
たまたま死体遺棄に手を貸すことになったライダルは、そのまま彼らの逃亡にも
手をかすことになる。

パトリシア・ハイスミス原作らしい。「太陽がいっぱい」なんかをひきあいに
出しての紹介で、ヴィゴ・モーテンセンだしなんか面白そうかも、と思って見に
いってきた。作られたのは2014年だけど、とてもクラシックな印象のする映画。
上映時間96分てことだし、ほんとコンパクトにテンポよくさくさく進む。
なのに正直眠たくなったりもする。悪くないと思うんだけど。

チェスターが実は詐欺師で、架空の石油会社かなんかの株かなんか売って大儲け
したものの、出資者の怒りを買って探偵やら組織やらに追われてる身、とか。
コレットは若くて美人、愛してるけど単なるお飾りの愚かな妻って感じ。
ライダルはチェスターが父親に似ている、というところから気になってしまって
いろいろ深く関わってしまうけれど、所詮反抗期な若者、って感じかなあ。
ライダルが、ああも深入りしてチェスターやコレットに執着してしまう感じを
もっとねっとりじっとり見せるシーンが欲しいなあ、と、個人的好みとしては思う。

チェスターを追いつめるために、警察だかFBIだか? の手先となって
トルコで待ち合わせ持ちかけたりするシーンは、ちょっと、おっ、と思って
わくわくした。
けどわりとあっさりと終りを迎える。最後にはチェスターはライダルは関係ない、
と自分の罪を告白して死亡。
チェスターが莫大な金額奪った詐欺師って感じがあんまりしなくて、なんとなく
適当にやったことがなんとなくうまくいっちゃって、逃亡のあてもないのに
なんか逃げちゃって、という行き当たりばったりな愚かな感じが、なんか、
もうちょっとなんかないのか、と物足りない気はする。でもまあそういう、小悪人
くらいの男、ってことなのかなあ。もうちょっとなんか。なんか、もったいない。

それでも酒でぐでんぐでんになったり煙草ばかすか吸ってたり、優雅にしてる
時には白いスーツ、みたいな、クラシカルなスタイルのかっこよさはたっぷり
堪能できて、よかった。いいよねえ。胡散臭いアメリカ人、ギリシャ旅行。
すっきりとした佳作、って感じでした。

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『妖琦庵夜話 魔女の鳥籠』(榎田ユウリ/角川ホラー文庫)

*結末まで触れています。


『妖琦庵夜話 魔女の鳥籠』(榎田ユウリ/角川ホラー文庫)


ユキさんとカオリ。二人は同じ悩みを持つ者同士として出会った。母に依存され
依存していることに苦しむ娘。すでに大人なのに、母親の呪縛から逃れられない
娘。その悩み、苦しみに、小さな後押しが加わる。

シリーズの4作目。
母と娘ね。。。嫌なテーマです。自分も見に覚えのあるだけに。
でもそこはやはりさすがのエンタテイメント。丁寧ながらもすっきり描かれていて
最初にやだな、と思ったよりはすんなり読み終わった。

事件は、その母と娘の苦しみにつけこんだ青目が陰で糸ひいてました、と。
伊織と青目の少年時代の出会いが描かれていて、青目の不憫な過去がわかる。
彼も母の妄執に囚われていた身だったところを、伊織とその母に救い出された、
ってことか。それ故の異常な伊織への執着ってことになりましたという感じか。
終りのほうでは、青目がついに妖琦庵へ手を出しかけた、今回は無事だったけど、
ってところで、次回からは青目絡みで話の根本が動くのかなあ。楽しみ。

もうほんとに、読み易いしキャラもたってて語り口はテンポいいし、主にスイーツ
刑事脇坂くんの調子いい感じでさくさく読めちゃって申し分ないんだけど、
申し分なさすぎて物足りない、という我儘欲張りになってしまう。
妖人、っていう設定も別にそんな活かされてる感じでもないしなあ。まあちょっと
超能力ありますよ、っぽい感じが特に青目なんかには必要なのかもだけど、
事件そのものは別に、って感じだしなー。まあなー。妖人がいるのがフツウ、
という世界観の中なわけで、それはそれで普通な感じとしてさらっとしておけば
いいのかなー。
ちょっとこのままだと私は退屈。次回話がどう動くかは読もうと思う。

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『早すぎる埋葬』(ジョゼフ・ハンセン/ハヤカワポケットミステリ)

*結末まで触れています。


『早すぎる埋葬』(ジョゼフ・ハンセン/ハヤカワポケットミステリ)


デイヴ・ブランドステッターシリーズ、9作目。
デイヴの家の庭先に一人の男の死体が放置されていた。エイズ患者を狙った
連続殺人の被害者の一人かと思われたが、違うようだ。事件を追ううちにデイヴ
もまた襲われる。

そんなこんなで、有名人らしいデイヴを勝手に見込まれて巻き込まれた、という
形。最初から保険調査の仕事と関係ない事件っていうのは初めてかな。
もうすっかり探偵だなあ。経済的に困ってないし年寄りになってきたって感じ
だし、引退を考えている、ってことだし、でも一人で突き進んでいっちゃうのね。

この本が出たのは1989年。実際に書かれたのはいつだろう。少し前くらい?
エイズのことがやっと出てきたと思った。
デイヴ自身には関係のないことではある。けれど、いろいろと話を聞きに回って
苦しむ患者や家族の様子がさらっと描かれていた。
悲痛なことが描かれてはいるんだけれど、デイヴ自身が深く関わった相手では
なく、事件調査していて話を聞きに行ったところ、なので、淡々とただ相手の
話を聞く。いいも悪いも断罪するわけじゃない。
そういう描き方だよねえと思う。デイヴは自分の事件として調査に回るけれど、
その相手の人生に立ち入るわけじゃない。

結局、成功者と思われていたドッヂは資金繰りに難儀していて、過去には何かと
胡散臭いことをしでかしていて。とっくに捨てて忘れていたであろう息子に
復讐された、という話。
デイヴは警察が護衛をつけてくれてるとゆーのにまた一人でガンガン行って、
一応今回も無事だったけどっ。危ないだろーっとひやひやさせられるのは相変わらず。
まーシリーズ終わるまで死なないだろうとはわかってるけどさー。

前作でクリシーを助けるために、と結婚したセシルにデイヴは怒ってて、険悪
な感じ。でも、最後にはクリシーがセシルは優しくていい人だけどもう無理、
っていって別れることになりそうだった。うーん。クリシーにこういう役回り
させるのってどうなのよ。まったくもう。
次の作品ではセシルとまた仲良くするのかな。楽しみ。

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映画「Mommy」

*結末まで触れています。


映画「Mommy」


シングル・マザーであるダイアン。一人息子のスティーヴはADHDと診断されていた。
架空のカナダでは、問題ある子どもを法的手続きなしに強制入院させることが
認められた。やがて16歳になるスティーヴのキレた時の暴力性は手が付けられず
かつていた施設では放火事件を起こし追い出された。
向かいに住むカイラは、言葉がうまく出なくなり休職中の元教師。ダイアン達と
知り合いつきあうようになり、ダイアンが家をあけるときにはカイラがスティーヴ
の勉強をみることにした。
つかの間3人家族のようにうまくいくかに思えたが、スティーヴが訴えられてしまう。
ダイアンの言う事を素直に聞きいれることのできないスティーヴを抱えて途方に
暮れたダイアン。


グザビエ・ドラン監督。
ミニドキュメンタリー・フィルム「グザヴィエ・ドランのスタイル」(11分)
というのが作品始まる前に上映されてた。
人物の視線を外すスタイル、後ろ姿を追いかけるショット、扉や廊下からひいて
人物たちを切り取るスタイル、みたいなグザビエ・ドランの特徴の解説みたいな
紹介があって、なるほどーと思う。

で。
「マミー」では画面のサイズが基本的に1:1だった。インスタグラムを連想
させる、とかいうらしいけど、私はインスタグラムはやってないからー。
iPhoneの画面、を連想でした。
途中、夢のようなシーンとか、解放された自由を感じるような時に、すーっと
スクリーンいっぱいに広がって印象的。世界は本当は広い、のか。世界が広い
と思うのは夢なのか。切ない。

スティーヴが問題児であるのはそうなんだけど、母親であるダイアンも、あまり
常識的とかまとも、という感じではないような描かれ方。でも何が常識的でまとも
なのかと考えだすと、何とも言えないんだけれどもねえ。
仕事を無くして、なんとか繋ぎの仕事を探そうとしたり。地道に掃除婦をやろう
としてたり。
でもスティーヴと激しく怒鳴り合うシーンいっぱいで、見ていて本当に辛い。
スティーヴのキレる衝動も、病気、ととらえるべきなのか、思春期の青年には
あり、というあたりなのか。私には正直よくわからないんだけれども、母息子の
格闘は本当に辛かった。
べったりとした愛情は確かにある。だが、その愛情は正しいのか。
でも正しい愛情ってあるのか? まともな愛情って何?

もう手におえない、となって、ダイアンはスティーヴを入院させることを決意する。
カイラも一緒に行く。
いざ施設にあずけるとなると抵抗するスティーヴと引き離されたくなくて
泣きわめくダイアン。どうすることもできないカイラ。
カイラは引っ越しすることになる。たぶん、逃げ出したくて。
いいのよ、と明るく言うダイアンだけど、その痛々しさは耐え難い。
ダイアンは一人で希望を待つ。
病院からまた逃げ出そうとするスティーヴ。拘束具が外れて走り出したスティーヴ、
のシーンでラスト。スティーヴはでも逃げきれないだろう。あるいは身を投げて
死んでしまうのか? ひょっとして脱出してしまうのか? 結末はわからない。

どうしようもなく苦しかった。
カイラも辛いし。ダイアンももっとちゃんと母親らしくしろよー、と思うけど、
でもじゃあ母親らしくってどうすればいいのか。スティーヴは。希望があるのか。
カイラ、息子を亡くしてるのかなあ。
スティーヴがふざけてロケットペンダントとった時の怒りの迫力が凄まじかった。

つかのまの穏やかな母親二人と息子一人、三人家族めいた時間がとても美しくて
でももうずっと、破滅の予感しなかない二時間あまり。
世界は広いのか。そんなものは夢なのか。優しいのか。残酷なのか。
引き裂かれる映画でした。

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『「女子」の誕生』(米澤泉/勁草書房)


『「女子」の誕生』(米澤泉/勁草書房)

「女子」ってゆーのが流行って、(笑)になって、なんだかんだの「女子」は
どういうものだろうな、というのがすきっとまとまって一冊になってて、
すごく読みやすくてわかりやすかったです。

この本で取り上げている「女子」は「腐女子」とか「文科系女子」とかではなく、
ファッション誌中心の「女子」。大人可愛いとか30代女子40代女子。
そもそもの始まりがファッション誌から流行り始めた「女子」ですね。

 本書は、二一世紀の初頭、ファッション誌というメディアによってようやく、
 「女子」を着て、「女子」を生きられるようになったことを解き明かすもの
 である。ファッション誌の「女子」たちが、装いによって「常識」を超え、
 年齢を超え、時には価値観や、規範を揺るがせていることが明白になるだろ
 う。ファッションや化粧が瑣末な日常の営みを超え、繭と鎧になり、「女子」
 を守る力となっていることも。 (はしがき ⅲ)

ファッション誌。私にはずっと縁遠いもの。美容院では読むけどわざわざ自分で
買うことはないもの。私は「女子」の現場に立つことはなく大体「女子」から
逃げて、「女子」には最初から負けて、距離をとってきた。腐女子だったり、
こじらせ女子だったりはすると思うけど、ファッションが大事!な「女子」で
あったことはないしこれからもないよなあ。

1999年、宝島の「Sweet」の登場。「大人かわいい」の流行を牽引してきた、
そうだ。JJ等の赤文字雑誌との対比で青文字雑誌って言われるものが雑誌の
勢力を塗り替えていく。
「愛されて男性に選ばれる女性」「妻」「母」。そういう女性の立場、役割を
とっぱらって、「女子」がうまれた。誰かのために何かのためにじゃなくて、
自分のために、というファッション。

この本読んで、「女子」な感じというのは徹底的に自己肯定な感じがした。
年代的にもフェミニズムブーム以降って感じ。誰かとか何かとかと戦うより
自分のために自分の好きな服やメイクを楽しむ!のが「女子」なんだなあと
思いました。

「女子力」っていうと、戦うためにとか対人という感じが出て、「女子」とは
またちょっと違う感じなのね。

 未婚既婚を不問にする大人ガールなファッション誌。全く母親に見えない母
 親のためのファッション誌。これらはすべて、従来の「常識」への挑戦なの
 だ。年相応。ミセスはミセスらしく。母親は母親らしく。上品に、控えめに。
 それはいったい何のためなのか。夫や子どもを支える妻、母として生きよ。
 主役ではなく、脇役として生きよ。表方ではなく、「裏方」として生きよ、
 ということではないのか。
  赤文字雑誌は、脇役人生こそ女の花道であると説いてきた。お嬢様ファッ
 ションで上昇婚を果たした後は、良妻賢母ファッションで「コマダム」にな
 ろうと。自分の好きな格好よりも人に好かれる格好をしようと。これに対し
 て『Sweet』に代表される青文字雑誌は、自分の好きな服を着て、好きに生
 きよと呼びかけた。それこそが「女子」なのだと主張した。それから一五年。
 ファッション誌の「女子」は、ファッションという極めて表層的な手段によ
 って、軽やかに「常識」を飛び越え、良妻賢母規範を脱ぎすてようとしてい
 るのである。 (P69-70)

「女子(笑)」みたいにされることがよくあるのは、自己肯定し、自分が主役に
なり、自分の好きな服を着て愉しんでいる「女子」に対して、女のくせに生意気な!
という部分がある男がそれなりにたくさんいるからなんだろうなーと思う。女の中
にももちろん、女のくせに生意気な!と思っている人もいる。
たぶん私の中にもある。自己肯定してる人に対する僻みやっかみ羨望嫉妬。
たいへん情けない。
ファッション誌はこんなにも自己肯定だったのか、と、改めて思った。
ファッション誌愛読してる人がすべて自己肯定的ってわけじゃないんだろうけど、
ファッション誌が送るライフステージのメッセージがこんなにも変化してきて
いるんだなあというのがすごく面白かった。
社会が変わっていくからなのか、社会を牽引せねばという使命感なのか。
もちろん今でも誰かに選ばれて結婚していくのが花道、というのもある。
良妻賢母でいたい人もいるだろう。でも、そうじゃなくて自分主役、っていう
生き方も当然あり、ということが目に見える形になってきている感じ。

昨日、美容院行ったので、女性誌を熟読しましたよ。
キラキラ輝く中にもゆるさとかぬけ感とか、こなれ感? エフォートレス?
さまざまな提言が溢れている重たい雑誌。「ぬけ」をわざわざ計算して作ら
なくてはならないのか。。。私には高すぎるハードル。ぬけぬけのゆるゆるで
しかない自分。
ファッション誌は無理、って人向けには大人のおしゃれみたいな雑誌もあるし、
丁寧な暮らしの雑誌もあるし。女性向け雑誌の細分化が進んでいるよねえ。

いろいろ考えさせられて面白かった。
書店員時代が、わりと赤文字雑誌凋落、青文字雑誌躍進、みたいな時期だった
かなあと思い当たることもあり、縁遠い雑誌タイトルの数々も名前はしってる、
表紙の感じとかもわかる、って思いながら読んだ。
「女子」の流れがよく見えて面白かったです。


 はしがき
 序章 ファッション誌的「女子」論
 第一章 「女子」の誕生
 第二章 「大人女子」という生き方
 第三章 『VERY』な主婦は「幸せ」か―「新専業主婦」の二〇年
 第四章 ファッション誌の「女子力」
 終章 仮想と武装―「女子」的蜷川実花論
 あとがき

 2014年7月20日発行

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